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徒然(是日々好日)

 2019/03/24
 原始仏典を読む

 昨日から刈谷図書館で、愛知県図書館蔵書の「原始仏典Ⅱ」の第1巻、2巻を借りて読んでいる。実際に借りたかった本は、「原始仏典」の方であって、間違って「原始仏典Ⅱ」を借りてしまった。
でも、よかった、相応部強Ⅱの第2巻は「因果についてまとめた経「Nidāna(因縁についての集。因縁編)」だったので、一番関心のある内容だった。実に充実した内容だ。

   IMG_0879_convert_20190324190337.jpeg  

「相応部経」とは、「サンユッタ・ニカーヤ」を「相応部」の訳だが、現代日本語的には、「サンユッタ」は「結びついた」という意味で、「ニカーヤ」は「集まり」を意味するから、「(なんらかの教理上の問題と)結びついた経の集まり」を意味する。」〜本文より


 2019/03/22
 西澤氏の「解脱を目指すことへの疑問」について

サンガ出版「死と輪廻」の西澤氏の投稿を読んで思ったことを書こうと思った。ちょうど「ブッダの実践心理学」を読んでいたので、その中の、「結生心」を参考にして考えてみよう。

「神様がもう一度チャンスを与えてくれたわけではない。・・・」(ブッダの実践心理学第2巻p52)の一節で説明があるように、そういう西洋的考えの根底には、「変わらない魂」「変わらない私」があるということが前提になっている。無我の真理から離れている。だから間違ってしまう。

それと同じことを、西澤さんは言っている。「Snga:死と輪廻」2018年サンガ出版のなかで、「『私』というものが転生するとは考えられない。だから、解脱をめざすということは考えられなくなった」と言われている。これも、「私」というものがあるということを前提にしてしまった論法である。そんな単純なことが分かっていないのかと疑いたくなるほどのミスである。
ここでも説明されているように、
「仏教で説明している『絶え間なく続く働き』としての輪廻とは、中身がまるっきり違います。心のたくさんのはたらきの一つは、結生することです。生まれ変わる場合は、心が主役なのです。もちろん、普通に生きる時も主役は心ですから、別に不思議なことを言っているわけではないのです。」〜ブッダの実践心理学p53

「心は常に生滅の状態である。それだけのことである。」〜「ブッダの実践心理学」

 なぜ西澤さんがそんな見解にいたったのか疑問に思うが、見えてくることがある。やはり、知識的、概念的に、思考を重ねていくとそういった考に陥ってしまいがちだ。氏は、アビダルマに非常に詳通している。そして、我々に丁寧に教えてくれる。だが、その側面では、非常に多くの時間と、知識への傾倒、尽力を、無意識のうちに示している。
つまり、丁寧で詳細に教えてくれるが、結局のところ、アビダルマ を難解な分かりにくいものとしている。つまり、どこまでいっても、それは、知識の範囲での理解はしているが、本質を理解していないと言える。

「私」とか「自我」と言うものは、いくらでも隠すことができる。知識、概論、論法で。それだけに自分自身でも、自身の根底にある自我意識に気づかないことが推察できる。
「『私』というものが転生するとは考えられない。」という氏の言葉には、自我を前提にした見解が見え隠れしている。
確かに、本文中の他の箇所では、輪廻、仏教の根本的な教義を肯定し、現時点においても、自分は仏教徒であることを強調している。また、仏教の根本的教えを否定はしていないと言っているが、その文面には、氏の知に裏付けされた感情が感じられる。つまり、あくまでそれは、氏の持つ豊富な(?)知識からくる見解であって、体験から出たものではないからだろう。

「・・だから、みんな機械が本物だと思って、それで苦労しているのです。」〜ブッダの実践心理学 CD-26・1b:40分頃

「結生心というのは、人が死んだから、心をつなげて、またどこかに生まれる。それが一つの心の流れなのです。だからといって、輪廻転生が分かったと言っても、我々には、それで分かるわけではありません。」
〜同:44分50秒頃

「輪廻転生がわからなくても、結生心というのは、つなげる機能だと理解できるのです。」
〜同:46分23秒頃

 2019/03/20
 小池龍之介氏の懺悔

正直に懺悔されていて、好感が持てた。そして、これから地道に進んでいくと言う言葉に、その決心に少しばかりの勇気と感謝の気持ちが生まれた。

巷でも、話題になっていることだろう。なんだかんだと言っても、今回の氏の懺悔は、彼自身のことであり、これからの彼の生き方にかかっていることだから、我々がどうのこうのと批評する必要はない。

事務局の佐藤哲朗さんが厳しいことを言っている。彼らしい言い方だが、それはそれでいいとして、実直に、正直に懺悔されていることに対して、私はとてもいい勉強させていただいたと感じている。

私自身も、彼ほどに若くて、そのような立場だったなら同じようになったかもしれないと思う。真剣に修行に取り組んだが故のことであり、純粋な動機の持ち主だったのだろう。その純真さがこの懺悔音声ファイルんのあちこちに現れている。

ただ、氏と私が違うのは、氏ほど純粋でもなく、一番お大きな違いは、生き方全般にわたり任せられる指導者の教えがあったということだ。その指導者を信じて、従順(?)に学んだおかげで、そのような境遇に行かずに済んだ。

だが、彼の経験したことは、瞑想修行者として、程度の差こそあれ。誰でも陥る問題である。長老に、口が酸っぱくなるほど、「勝手な判断はするな」と、繰り返し説き伏せられたこと。時には限りなく厳しく教えられた。それが功を奏して、なんとかここまで来れたのだ。非力ながら。

だから、彼の経験、正直な懺悔は、真列な体験を事実として、陥りやすい境遇を、我々瞑想実践者に示唆してくれた。

(追記:発言の中で気になるところがある。彼は、盛んに「心はエネルギー」ということを言っているが、それはあくまでも、心を表現するための仮説である。それを既成のものとしと、あるものとして、概念に頼りすぎているのではないだろうか。2019/03/22)



県森の2019_03_18_convert_20190318171721 2019/03/18
 「はたらき」が存在です
 
「ブッダの実践心理学第4巻」~
 ・・・ですから、世の中にある全ての言葉であってもなくても、はたらきをしているのです。仕事をしているのです。大事なのは、そのはたらきなのです。実体的なものがあるかどうかではないのです。はたらきがあるから、我々は実体があると錯覚するのです。

例えば聴覚というはたらきが生まれる。すると、身体が変化するのです。音が耳の粘膜に触れると、聴覚が生まれる、それで、我々は「音というものがある」と、言葉で言うだけ。

ですから、物事の存在はそのはたらきによって成り立っているのです。「諸法は無我だ」と語られているのは、すべての現象にははたらきがあるが、独立した存在は成り立たないからです。「ある」と言えますが、それは、何かのはたらきをもっているから、仮に言う言葉に過ぎないのです。


 2019/03/02
 私の義務は努力するだけ


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 今日の言葉は、自分の日頃をふり返ると身に染みる。いつでも、その思いが入る・・・くり返し、足踏みす。
そのまま、放っておく。いつも何かを求めて、攻撃的になっていないか。
 いろいろあっても、つねに、受けて、ながす。ただ、それだけ。

 2019/02/25
 お薦めの本


 法友推薦の本、立ち読みしてみた。道を明確に示す良い本だと思った。
やはり、法友の提言に間違いはない。

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 2019/02/22
 Ride on a bicycle!


 久しぶりのライドだ!風がない、気温もいい。こんなに自転車のペダル、軽かったっけ?と思うぐらいに、軽い。
やはり、サイクリングが最高!昔取った杵柄というわけでもないが、自転車が好き〜。
 身体と自転車の一体感〜(^o^)。この感覚はなかなかない。

 2019/02/21
 ただそれだけ


 あなたがそれをきちんと観察するとき、私たちの世界は「ただそれだけ」のものとなります。あるがままのものとして、世界が存在するということです。・・・。
 楽しいこと、おいしいもの、興奮するもの、心地よいものといったものは何であれ、ただそれだけのものです。
「手放す生きかた」アーチャン・チャー著より

 2019/02/18
 インドから帰って


 昨日、12日間の旅を終えて帰国した。後日、旅の回想録を書こうと思う。

 ただ、2600年の長い歳月を経た、仏教遺跡めぐりの旅は、言葉で表せれるか自信がない。その地に立たなければ、その臨場感、想いなどは知るよしがない。

 どう伝えられるのか・・・。今は、ただ休みたい。


 2019/01/28
 映画「イミテーション・ゲーム」を観て


 人間は孤独

 孤独=苦 偉大な人、天才とは、

 偉大な人というのは、変人なんだ。どこか、他人と相容れないところがある。

 だから、それが顕著なんだ。普通じゃないのだ。

 誰にしも、他人と相容れないところはある。が、それを、表に出さずに、社交的、社会的常識の範囲で妥協して、協調する。

 それを、世のなかは、絶対に必要だと称する。協調するこころが。それは、仏教でも教える。

 だが、ある分野で飛び抜けている人は、どこかで、それが協調できない部分が出てくる。押しきらなければならないところが出てくる。それは、誰も理解しないし、しようがない。だから、孤高の人になる。

 そのはけ口として、奇抜な行動や表現をしたりする。性癖もあるだろうと想像がつく。そう!よく言われる「英雄は色を好む」と。しかし、その言葉を言い訳にして、勘違いして、たんなる色好みの性癖に走る、凡夫がいかに多いことか。

 とにかく、偉業をなそうとする人は、孤独である。この映画を見て考えさせられた。

 いや、人間の根本にあるのは孤独ということだろう。偉大な人はそこが正直に出る。その他の人は、そこを何とかして、妥協して他に逃げる。

 それが悪いわけでは無い。悪いとか良いとかは決められない。偉大な人といっても、ある特殊?でもないか?ある部門ですごく秀でた人であって、それに価値をつけるのは、人間の浅知恵、エゴかも。また、評価しないのも人間であろう。

 現に、この主人公は、世にでることなく、認められること無く死んでいった。仕事の内容からして、しかたがないところはあるが。歴史に名を残す芸術家とかもそういうものである。後世になって、世に認められるものもある。

 だが、我々、一般人においても、目立つような功績を残さない凡人であっても、孤高の時はあるし、孤独はある。ただ、それが、世に広く役に立ったか立たなかったの違いだ。それがどうしたというのだ。どうでもいいことだ。

 あくまでそれは結果であって、結果を見て評価するだけだから、世のなかに役立つだろうと思っていても、役に立たないものは幾らでもあるだろう。

 だから、それはどうでもいいのだ。いまやるべきことを、やれるべきことをやる。それだけ。

 発見したことがある。Amazonプライム・ビデオの星の数が、4.5以上の人気作品は、この映画のように、孤独をテーマにした映画が多い。つまり、人びとが共感をおぼえるテーマであるということだ。つまり、皆誰しもが、孤独を感じている。そして、人間の根底に孤独があるということを表している。

 孤独がイヤだから人びとは色々工夫する。

 孤独ということ自体が妄想なのだが。自分というものがつくり出している。

 いつも真摯な自分、真面目な自分、不真面目で怠け者の自分、怒りっぽい自分、人一倍、人のことを考える自分、わがままなな自分、嫉妬深い自分・・・あげたらきりがない自分のなかで、いちばん確かで、つねにいる自分。それが孤独な自分なのだろう。

 何かあったらそこに落ち着いてしまう。


 2019/01/27
 2018/11/23法話を聞いて・・・ひとつの自分に固定したい

 45分過ぎぐらいのあたりから〜「一個の自分がいると思っているが、本当は、無数の自分がいるのです。その中から、いくつかの自分を選んで、それを固定したものにしたいと思っているのです。
  
 たとえば、これも病気なんですけど。自己啓発とかこちらの瞑想会とかに来る人々は、無数にある自分のなかから、なにかひとりの自分を選んで、固めてもらおうと、その場合は、しっかりするんだよと思っているでしょ!?」

 そう!いつも、「私はこうあるべきだ」と。だから、修行するし、勉強をもっとしたいと。やらなければと思っている。それ自体が、自我を強化していたのだ。

 2019/01/27
 相変わらず


 船瀬さんとは、昔、6人ほどの食事の席に同席したことがある。あのときも、滑舌で、多方面の目新しい話しが面白くて、いつまでも止まらなかった。今も変わらずお元気そうだ。ただ、この動画では、お酒が入っていくらか興奮気味だ。世を憂いて。

   https://www.youtube.com/watch?v=ozm1TQk3GV8


 2019/01/27
 確信を得る


 分かる人にはわかる。と言うけれど、何も話さなくても分かる人にはわかっている。よく考えてみると、これはとても不思議に思えることである。誰しもが、やはり、話し合わないと分からないと思っている。

 確信をもっている人には、それが言える。
・・・つぶやき>

2019/01/26
 足ることを知る


 と言うけれど、「足りていることを知れ!」ではなく、「足りている」と自然に思えて、「いつのまにかに、足りている」と。
 ・・・つぶやき>

  2019/01/25
 創造のはじまり


 朝、覚める。眼を開けた途端、現実の世界が。すべて相対的に。
 
 思考は、思わぬところから入り込む。コントロールできない。

 ある瞑想合宿の法話で、師曰わく「悟ろうと思うと、悟れませんよ」と。また、昨年のウェーサカ祭で、どこかの大学教授と長老が壇上対話で、教授曰わく「病気は、どうも、意識しすぎると回復が遅い傾向にあります」のようなことを話していた。長老曰わく「そうなんです、治そう、治したいという意気持ちが入ってしまうと、うまく行かないのです。そこに、微妙にでも、自我が入るのですね。」と。
 
 もっと見る>

 2018/12/31
 今度は愛妻家になる


 ・・・<途中省略>・・・私の理不尽なわがままに付き合って、我慢してくれた。ただ耐えるだけの妻。
 決して、愚痴をこぼさず、ただ忍耐して笑顔を絶やさず、ついてきてくれた妻。

 そんな妻が、そばに居たのに気がつかなかった。つい今日まで。

 生活と身のまわりのことだけに掛かりっきりで、仏教のことなどには、まったく気持ちを寄せることなく、その日、その日を生きているどこにでもいる主婦だが。

 感謝しかないのに、感謝のひとこともない。

 正直に、素直になろう。

 仏教は、人は必ずいつか死ぬ。だから、最愛の人が死んでも感情的になって嘆き悲しむことなくやり過ごす、理性の人こそ人格者だと教える。
 そして、家族への思いや愛着を捨てるべきだ。と教える。

 だが、本当にそんなことなのだろうか?
 お薦めの映画「今度は愛妻家」を観て、あなたはどう感じるだろうか?

 ある人から、「一時出家の良い経験しましたね。自分にとっても、すべての人にとっても役に立つといいですね」と祝いの言葉を送られた。

 しかし、あれから数ヶ月たった今、「そうですね」と、素直に返事ができない自分がいる。
 まだ、過去の自分、今までの自分がそのままそこに居る気がしている。
わがままで、すぐ怒る。そして、反省と落ち込みのくり返し。


 2018/12/25
 協会HPから


・「我々の全ての悩み、苦しみは、「妄想」 と 「価値判断」 から生まれてくるのです。」

・ですから、ひととき世俗的な生き方から離れて違う世界を味わうという意味で、儀式儀礼は悪いことではないが、その手法はやはり良いものを選ばなければならないのです。たとえば人助けの働き、ボランティアなどでもこの「世俗的な生き方」から離れた世界を味わえるのです。また仏教では、ふつうの人々には、芸術も否定していません。音楽や絵画をやることもかまわないのです。

 

 
 2018/12/25
 慚と愧が弱くなった時


 慚と愧が弱くなったとき。恥ずかしいとも、怖いとも思わくなっていたとき。ただ、刺激がほしいという欲が圧倒的に勝っている。性欲、食欲、顕示欲など。とくに肉体に対する欲、執着があって、諸々の欲の強いときは、今までの悟りのことや修行が無意味に、また、遠い出来事のように思えて、まったく、その時の「私」は別人格になっていると感じる。

だから、注意すべきである。そのような事態に陥っても、自分をとことん卑下することがあっても、それに捉われずに、早くそれから離れるべきである。捉われるとは、欲の感情に振り回されている状態を「私」と、「私はダメな人間だ」と、また「何度やっても進歩がない人間だ」などと、卑下することだ。決して、そのように決めつけないことだ。そのマイナスの感情で走ってしまうと、今まで修行できていた善い自分のことが、虚実のように遠くに感じて、果てしなく不可能な道に思えて、自信喪失するからだ。それは、最たる妄想、邪見だ。決して、「それが、自分の本来の姿である」と、決めつけないこと。そう判断しないことが肝心。

 2018/11/25
 宇宙


 立っていることに気づくと、宇宙が見えてくる。

 「天空よ、我はここに立っている」

 降る星々の瞬きを眺め立っていると、日々の怒り、嫉妬、うらみ、こんとんとした己のこころの葛藤が虚にみえる。


 2018/11/10
 冥想実践について


 今更というテーマだが、自分は、スマナサーラ長老の瞑想指導のもとで実践してきて幸運だったと思うし、間違っていなかった。確かに、正直なところ、一瞬、迷ったときもある。しかし、あくまでも一瞬、一瞬だ。これで良かったといまは思えてしあわせである。

  テーラワーダ仏教に出会って、十一年が過ぎた。長老のことを知って。その間、色々あった。自分自身のことでも。
  色々な仲間とも知り合った。そんななかで、長老のもとで、いまでも冥想実践に情熱をもちつづけている人は少ないように感じる。

  冥想実践をやめてしまった人も多いし、他の指導者に流れていった人もいる。私自身も、ほかの長老の指導も受けたことがある。しかしそれは、本の手ほどき程度であった。

  そんななかでも印象的だったのが、ウセッタ長老の厳しい合宿指導だった。参考になったことがあり、今でも、たまにその教えの通りに実践している。

  やはり、最後は、スマナサーラ長老の指導にいきつく。瞑想だけではなく、仏教全体、仏教そのもの、お釈迦様の教えのど真ん中、のなかの本質を教えることで、結果、冥想実践がすすむようになっている。

  まあ、どうしても、「冥想実践について」迷う人があろうから、参考になるかもしれないので、ここにネットから、佐藤哲朗さんの記事を紹介する。

     ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味


 2018/11/02
感情


 確かに、「人にどう思われようが、あまり気にしない」という気持ちもある。でもそれは、やはり感情の延長戦上にあるように思う。

 出家の心とは、もっと、理性的で、客観的のようだ。


2018/11/02
出家とは


長老は、いわれた「在家では、見せる生きかたですが、出家は、見せない生きかた」と。

 耳がいたい話しだ。確かに、いままで「見せる生きかた」をしていた。人にどのように思わるのかと気にして。どこかで、「自分はこういういい人間です」と、人に良いように思われたい気持ちがあった。

 逆に、「あの人は、いい人だ。格好いいな」と、他人のことをうらやましく思うこともある。

 誰しも、大なり小なりそういう気持ちはあるのだから、仕方ない。と、いうのが世間だろう。また、それだからこそ、頑張るということもあろう。

 だがそこは、はっきりとしないといけないのが出家のようだ。きつい。

 

2018/07/18
世俗諦と勝義諦(人間関係の解決法)

 長老は言われる。(ブッダの実践心理学第1巻p30〜:CD1−b40分ごろ)
・・・ですから、世俗諦、世の中の決まりは、それほど厳密にやらなくてもいいのです。立場によってコロコロ変わるものだし、変わったと言っても大した違いもないし。
この理解は、とても大事です。アビダンマを学ぶ前に、「世の中の全ては世俗諦だ、みんなの決まりだけだ」という理解を持つことが、とても重要なのです。

 
そして、慈悲喜捨。



2018/07/15
今日は、名古屋初期仏教デーに参加してきた。
 長老に質問した。答え「次のこと、未来のことに引っかかっている」と。
「確かに、その通りかもしれない。」と。
まだ自分で気づいていないことだ。


  今日の講義は強烈だった。合宿以外で、久しぶりに、本当の話を聞いたように思う。
法話を聞いて、もう私などは、社会、人間関係とは距離を置けると思っていたが、いかに自分が、その社会の常識の中で生きているのかと思わされる。きついと思う。ということはその智慧がないということ。


 皆にもきつい話だったのではないか。 

 社会の被り物。仕事場、家庭、すべての人間関係の中での被り物。「あなたたちは、クソの中でクソで生きている」と比喩された。

 長老は「愛」という言葉を嫌うように思う。母親の子に対する愛情を「最悪の愛着だ」と言い放つ。よく知らずに、あの場の話の前後をよく理解していないと。言葉そのままの意味に受け取ってしまう。普通の母親なら引いてしまう。

 「愛」をメインテーマに唱うキリスト教を例に挙げて「気持ち悪い」と表現されることがある。

 「愛」の定義が曖昧だから色々な場面で使われる。一番感情的に表現しやすい単語だ。単なる執着から相手を深い慈悲の心で心配りすることまで含んでしまう。都合のいい言葉で、人が踊らせやすい。

 でも我々はほとんど、この愛という言葉の中でこそ
生きていると言っていいのではない?。だって、理性よりも感情が優先する言葉だから馴染みやすい。いや、それでしか生きられない。生きてこなかった。



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