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徒然(是日々好日)

 2018/12/25
 協会HPから


・「我々の全ての悩み、苦しみは、「妄想」 と 「価値判断」 から生まれてくるのです。」

・ですから、ひととき世俗的な生き方から離れて違う世界を味わうという意味で、儀式儀礼は悪いことではないが、その手法はやはり良いものを選ばなければならないのです。たとえば人助けの働き、ボランティアなどでもこの「世俗的な生き方」から離れた世界を味わえるのです。また仏教では、ふつうの人々には、芸術も否定していません。音楽や絵画をやることもかまわないのです。


 2018/12/25
 慚と愧が弱くなった時


 慚と愧が弱くなったとき。恥ずかしいとも、怖いとも思わくなっていたとき。ただ、刺激がほしいという欲が圧倒的に勝っている。性欲、食欲、顕示欲など。とくに肉体に対する欲、執着があって、諸々の欲の強いときは、今までの悟りのことや修行が無意味に、また、遠い出来事のように思えて、まったく、その時の「私」は別人格になっていると感じる。

だから、注意すべきである。そのような事態に陥っても、自分をとことん卑下することがあっても、それに捉われずに、早くそれから離れるべきである。捉われるとは、欲の感情に振り回されている状態を「私」と、「私はダメな人間だ」と、また「何度やっても進歩がない人間だ」などと、卑下することだ。決して、そのように決めつけないことだ。そのマイナスの感情で走ってしまうと、今まで修行できていた善い自分のことが、虚実のように遠くに感じて、果てしなく不可能な道に思えて、自信喪失するからだ。それは、最たる妄想、邪見だ。決して、「それが、自分の本来の姿である」と、決めつけないこと。そう判断しないことが肝心。

 2018/11/25
 宇宙


 立っていることに気づくと、宇宙が見えてくる。

 「天空よ、我はここにいる」

 降る星々の瞬きを眺め立っていると、日々の怒り、嫉妬、うらみ、こんとんとした己のこころの葛藤が虚にみえる。


 2018/11/10
 冥想実践について


 今更というテーマだが、自分は、スマナサーラ長老の瞑想指導のもとで実践してきて幸運だったと思うし、間違っていなかった。確かに、正直なところ、一瞬、迷ったときもある。しかし、あくまでも一瞬、一瞬だ。これで良かったといまは思えてしあわせである。

  テーラワーダ仏教に出会って、十一年が過ぎた。長老のことを知って。その間、色々あった。自分自身のことでも。
  色々な仲間とも知り合った。そんななかで、長老のもとで、いまでも冥想実践に情熱をもちつづけている人は少ないように感じる。

  冥想実践をやめてしまった人も多いし、他の指導者に流れていった人もいる。私自身も、ほかの長老の指導も受けたことがある。しかしそれは、本の手ほどき程度であった。

  そんななかでも印象的だったのが、ウセッタ長老の厳しい合宿指導だった。参考になったことがあり、今でも、たまにその教えの通りに実践している。

  やはり、最後は、スマナサーラ長老の指導にいきつく。瞑想だけではなく、仏教全体、仏教そのもの、お釈迦様の教えのど真ん中、のなかの本質を教えることで、結果、冥想実践がすすむようになっている。

  まあ、どうしても、「冥想実践について」迷う人があろうから、参考になるかもしれないので、ここにネットから、佐藤哲朗さんの記事を紹介する。

     ブッダの瞑想法――その実践と「気づき(sati)」の意味


 2018/11/02
感情


 確かに、「人にどう思われようが、あまり気にしない」という気持ちもある。でもそれは、やはり感情の延長戦上にあるように思う。

 出家の心とは、もっと、理性的で、客観的のようだ。


2018/11/02
出家とは


長老は、いわれた「在家では、見せる生きかたですが、出家は、見せない生きかた」と。

 耳がいたい話しだ。確かに、いままで「見せる生きかた」をしていた。人にどのように思わるのかと気にして。どこかで、「自分はこういういい人間です」と、人に良いように思われたい気持ちがあった。

 逆に、「あの人は、いい人だ。格好いいな」と、他人のことをうらやましく思うこともある。

 誰しも、大なり小なりそういう気持ちはあるのだから、仕方ない。と、いうのが世間だろう。また、それだからこそ、頑張るということもあろう。

 だがそこは、はっきりとしないといけないのが出家のようだ。きつい。

 

2018/07/18
世俗諦と勝義諦(人間関係の解決法)

 長老は言われる。(ブッダの実践心理学第1巻p30〜:CD1−b40分ごろ)
・・・ですから、世俗諦、世の中の決まりは、それほど厳密にやらなくてもいいのです。立場によってコロコロ変わるものだし、変わったと言っても大した違いもないし。
この理解は、とても大事です。アビダンマを学ぶ前に、「世の中の全ては世俗諦だ、みんなの決まりだけだ」という理解を持つことが、とても重要なのです。

 
そして、慈悲喜捨。



2018/07/15
今日は、名古屋初期仏教デーに参加してきた。
 長老に質問した。答え「次のこと、未来のことに引っかかっている」と。
「確かに、その通りかもしれない。」と。
まだ自分で気づいていないことだ。


  今日の講義は強烈だった。合宿以外で、久しぶりに、本当の話を聞いたように思う。
法話を聞いて、もう私などは、社会、人間関係とは距離を置けると思っていたが、いかに自分が、その社会の常識の中で生きているのかと思わされる。きついと思う。ということはその智慧がないということ。


 皆にもきつい話だったのではないか。 

 社会の被り物。仕事場、家庭、すべての人間関係の中での被り物。「あなたたちは、クソの中でクソで生きている」と比喩された。

 長老は「愛」という言葉を嫌うように思う。母親の子に対する愛情を「最悪の愛着だ」と言い放つ。よく知らずに、あの場の話の前後をよく理解していないと。言葉そのままの意味に受け取ってしまう。普通の母親なら引いてしまう。

 「愛」をメインテーマに唱うキリスト教を例に挙げて「気持ち悪い」と表現されることがある。

 「愛」の定義が曖昧だから色々な場面で使われる。一番感情的に表現しやすい単語だ。単なる執着から相手を深い慈悲の心で心配りすることまで含んでしまう。都合のいい言葉で、人が踊らせやすい。

 でも我々はほとんど、この愛という言葉の中でこそ
生きていると言っていいのではない?。だって、理性よりも感情が優先する言葉だから馴染みやすい。いや、それでしか生きられない。生きてこなかった。

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Author:meisou358
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