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最近の動画と法話(10月〜




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以下の説明にありますように、動画には限定配信されたものが含まれております。このリストの動画および法話メモにおいても、皆様一人ひとりの学びとしてのみに限定してご覧ください。第三者への転送、複写による提供は禁止いたします。

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≪凡例:動画と法話メモ≫

動画→ 20180114 法話と実践会 午前の部 ゴーダミ精舎    法話メモ ←動画のメモ

法話日:2018/01/14・内容:法話と実践会・場所:ゴータミー精舎




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20181120  ゴータミー精舎『パーリ経典解説』



テキスト  法話メモ  法話メモ改定版

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20181028  ゴータミー精舎「法話と質疑応答」



法話メモ

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20181026  ゴータミー精舎『パーリ経典解説』



テキスト  法話メモ改訂12/23

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20181007 初期仏教月例講演会「必然の幸福ーー実践!因縁の法則」日暮里サニーホール


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法話メモ11/20改定版

2018年11月20日(火)77 tweets
11月20日@jtba_talk
スマナサーラ長老の仏教法話@jtba_talk

控えめに実況中継いたします。Vibhaṅgasuttaṃ「分別経」(『相応部』12-2)続きです。 https://twitter.com/jtba_info/status/1064818312947867648…
posted at 18:51:19
〜読経[00:21:00]
‘‘Katamā ca, bhikkhave, taṇhā?  
では比丘たちよ、いかなるものが〈渇愛〉なのでしょうか。 
Chayime, bhikkhave, taṇhākāyā
比丘たちよ、これら六愛身です。

これは、六種類の渇愛組織がある、ということなんです。身というのはシステムのことです。パーリ語のカーヤは言語学的には「からだ」
posted at 19:22:43

と訳するしかないんですが、実際にパーリ語を使っている我々は、組織、システムという意味で理解しています。しかし、現代のシステムというアイデアが注釈書時代には無かったんです。英語でも、身(body)は組織・システムという意味なんです。単一のものではない、という。
posted at 19:22:43

アーリア言語家族を使っている人にとっては、カーヤ=組織・システムとすんなり取れるんですが……日本語にはそういうニュアンスが入らないようです。

渇愛、タンハーというのは、もっと欲しいという意味なんですね。足らない、もっとあっても悪くないと。渇愛には同義語がたくさんあります。
posted at 19:22:43

アーサワ(漏)という場合は煩悩であって、内から外に漏れる、という意味で(心の)汚れなんです。それぞれの文脈で、(煩悩・渇愛)の働きをみて言葉を選ぶんです。それからタンハーの説明に入ります。タンハーとは、もっと欲しい、という、渇愛、満たせない状態です。四聖諦では、三つの渇愛としています。
posted at 19:22:43

カーマタンハー、バワタンハー、ヴィバワタンハー。(この経典で取り上げている)因果法則の説明は、四聖諦の二番目の説明なんです。これは理解しやすいと思います。六つの渇愛組織とは、眼耳鼻舌身意の六つです。眼で見て、耳で聞いて……渇愛が生まれるんですね。
posted at 19:22:43

こちらで執着(渇愛)が生まれるんですね。外の世界は管理できないものですけど、認識した途端に渇愛が生まれる。それが悩み苦しみの原因になっちゃう。見えるのはすべて外のものなんです。外のものが何か悪いことをしているわけじゃないんです。公園の花は人間を地獄に落とそうとは思ってないんです。
posted at 19:22:44

我々が花を見て、「花がキレイ」と思った途端に、どれだけ大変な世界をつくっていますかね?花の生け方があって、たくさん家元があったりして。花にとってはえらい迷惑なんですね。人間の欲のせいで……。花に限らず見るものに何かしら感情を作るんです。それですごく苦しい世界が、一つのシステムが生まれるんです。
posted at 19:26:03

組み立てたもの(煩悩)
単一で欲が生まれるわけではないんです。因果法則ではそれをすごく気をつけて言っている。組み立てることで欲が生まれただけ。部品を組み立てなかったら、現象はあらわれないんです。部品には執着しないのですが、組み立てたものに、価値があると執着するのです。因縁によって現れたとは、すごく俗っぽく言えば、組み立てて現れたということなんです。
posted at 19:26:03    ↑欲・煩悩

組み立てたものだからいつでも一時的なんですね。長持ちするものではないんです。例えば、我々がレンガで壁を作ったとすると、壁は一時的。壁が壊れてもレンガが残るということはありますね。そのとき、レンガは頑丈なのですが、壁はそれほど頑丈ではないのです。

目を通して、渇愛という組織があります。組織というのは、目と色と触れること、感じることを全部をまとめて、感じたものに対して感情を作ったというシステムになる。それで眼耳鼻舌身意まで行くんです。我々があまり理解しないのは、意と法の関係です。法とは現象のこと。法という場合は何でもいいのです。法という単語に入らないものはないのです。
posted at 19:28:45[00:36:09]

意門で、身体を使っても使わなくてもこころ(意)は活動する。眼耳鼻舌身は道具として理解する。意門の場合は道具を使わないで直接理解する。それ、すごく人々に理解しにくいところなんです。耳に音が触れる、パッサ(触)が生まれるというのは分かりやすい。触れて耳識が生まれてしまう。
posted at 19:35:19[00:37:27]
意にも法という現象が触れるんです。それ理解が難しい。身体に何か触れるように、意にも何かが触れて、感じるんです。心で考える(意で感じる)場合は、考える対象は、結局は、心の中にあるんです。識(ヴィンニャーナ)の中に対象があるんです。(意と法・こころ)触れると言ったら、同じもの(こころの中身)だから分からなくなるんです。
posted at 19:35:20

瞑想して自分の思考をじっと観察すると、意に対象が触れることを感じることはできます。性格的にできない人もいるけど、微妙にものごとを観察する人だったらね。データは過去のデータでも、未来のデータでも、現在のデータでも、実際にないあり得ないものでも、意で考えることができます。
posted at 19:35:20

決してあり得ない、ありっこないものでも、考えることできます。だからすごくややこしいんです。それから、人間に執着あるから、考えたことが一番正しいと思っているんです。見たこと聞いたことより、考えたことに、すごく執着持っているんです。
posted at 19:35:20[00:40:19]

なぜ妄想切れないかというと派手な執着があるからです。妄想は好きでやってる、意図的にやっているんです。また、ループ、パターンが出来上がっちゃうと、どうしても回転してしまうということもあります。例えば、自分が気に入っている花への執着を捨てることは、そんなに難しくないんです。眼耳鼻舌身の愛着というのは、その気になれば捨てられます。
posted at 19:35:20

我々は簡単にものを交換したり、腕を振るった料理を皆に食べさせてあげたりするんです。しかし、自分の妄想に何か言っちゃうと……激怒して腹が立つんですね。それだけは変えたくないんです。ただの妄想なんですけど。まったくいい加減で事実ではないし。
posted at 19:35:20

政治の世界でよくみられることで、人々は好みの党をつくる。何かのPRをして、自分がこの党が好きだとなったら、そう簡単には変わりません。いくらしゃべっても、データ出しても、変えられないんですね。宗教も同じです。そこに愛着が起きたら、変えることはなかなか難しくなるんですね。
posted at 19:35:21[00:44:30]

そうやって、私たちは、変えない考えがたくさんあるんです。それにものすごく執着している。智慧を開発するためには、これはすごく邪魔なんです。いくらデータを入れても自分の思考という偏見で処理してしまうんです。だから(話を聞いても)聞いたことにならないのです。だから真理を教えても、そのまま頭に入らないんです。
posted at 19:39:52

その人間のハンディを何とかすれば、いろんなことを勉強できるようになります。意門に起こる知識への執着はものすごく強い。そのように渇愛が六つの組織に分かれて活動します。渇愛自体は一つだから、六つの組織からつくる渇愛は強烈になるんです。渇愛自体にタンハーカーヤ―ともいうんですね。
posted at 19:39:52

解脱に達することができない、心を自由にできない理由は、渇愛が強烈に働くからなんです。要するに渇愛があるから、眼耳鼻舌身意に入る色声香味触法という情報が欲しくてたまらない。生きることはこの六種類の情報を探し求めていくことなんですね。たとえば、金銭に対する渇愛を無くすと言った場合は、「では金銭とは何ですか?」と分析しないといけないんです。
posted at 19:39:53

「金銭に対する愛着って何ですか?」と分析するんです。自分で分析してみないと意味がないのです。渇愛は眼耳鼻舌身意の感覚に生まれるものなんです。我々は金銭の色や形に愛着持っている?そうではないでしょう。世間の考えでは問題解決していないのはそういうわけで、
posted at 19:46:26[00:50:40]
↓感覚
仏教的に分析してみると、われわれは金銭に愛着があるわけではなくて、眼耳鼻舌身意に触れる情報に愛着を感じているんです。金銭に愛着があると言っても、眼耳鼻舌身意に触れる色声香味触法の情報について、欲が生まれているんです。
posted at 19:46:26[00:51:25]

子供は、高い安いではなく、自分がねらった物しか買おうとしないのですね。賢いです。
大人になるとそれが消えてしまって、色々苦しんでしまうのですね。ねらった物でなく、何かが眼に入った物に欲が行って、色々迷い、苦しむことになる。だから、大人は欲から得る楽しみも逃してしまうのです。
子供程度の欲であったらすごく楽しく生活できると思います。

俗世間的には、家に、車に、金に、いろんなものに現象的に執着があるけど、そこは分析してほしいんです。渇愛は色声香味触法に生まれるもので、色声香味触法が得られないならば、車には愛着生まれません。色声香味触法を買うことできなかったら、金の意味が無いんです。
posted at 19:50:37[00:59:52]

皆様の手に千円札と10ドル札がある。どちらに執着生まれますか?千円札なんです。すぐに色声香味触法に変えられますから。10ドル札の場合は、「これで海外に行ったら何か買えるでしょう」と、妄想思考で愛着を作るんです。思考には膨大な、限りない渇愛が生まれるんです。一番怖いのはそこなんです。
posted at 19:54:51

味に渇愛あっても、限りなく味わいたいということは不可能でしょう。味わえるものにはリミットがあります。あまり同じ味を味わうと、舌が拒否するんです。舌の物質が電気信号を送らなくなる。食べる人にも面白くなくなっちゃうんです。音も他のものも、同じことです。
posted at 19:54:52

見るものも、ジッと見ているとつまらなくなっちゃう。感動は一度きりで終わっちゃうんです。しかし、心に生まれる愛着はそうではない。わけのわからないものに愛着してしまう。ブランド品に愛着があると、あらゆるものを同じブランドでそろえてしまう。
posted at 19:54:52

身体に触れるのはどってことないけど、頭で妄想の世界に入って喜んでいるんです。ボールペンだったら100円で6本入ってるのもあるし、一本20万円のボールペンもある。何が違うかというと、何も違わないんです。書くという機能は同じですから。
posted at 19:55:59

その場合、渇愛はどこにあるんですかね? 思考に、妄想にあるんです。ダイヤの指輪が欲しい、となったら渇愛はどこにあるんですかね?思考に、妄想にあるんです。出家に金銀宝石などを禁止しているのは、そこからすごい妄想の渇愛が出てくるし、それで生まれる苦しみが多いからなんですね。
posted at 20:01:04[01:07:17]

100円のボールペンが無くなったらといって探す?あれ、無いみたい、で終わりでしょう。では、20万円のボールペンが無くなったら?
posted at 20:01:04

気をつけるべきところは、眼耳鼻舌身よりは意で生まれる渇愛は膨大な量があるということです。それにかなり引っかかります。色声香味触というものにすごい渇愛があると、死んだら餓鬼道に堕ちるんですね。まあ、それだけ。意で触れるものに愛着が生まれると、リミットがないのです。飽きないんですね。だから、妄想するは、するは、するは、いくらやっても飽きないのです。
posted at 20:15:24

意で感じるものには、いくらやっても飽きないんです。それは輪廻を超えるための障害になっています。
[01:13:58]
はい、次に行きましょう。因果法則の解説は簡単なところから、難しいところに行くんです。ヴェーダナー(受)から渇愛が生まれるので、ヴェーダナーの解説に移ります。
posted at 20:15:24

‘‘Katamā ca, bhikkhave, vedanā?  
では比丘たちよ、いかなるものが〈受〉なのでしょうか。
Chayime, bhikkhave, vedanākāyā
比丘たちよ、これら六受身です。

感じるチャンネルも六つありますね。眼耳鼻舌身意で色声香味触法を感じるんです。
posted at 20:15:24

眼で何かを見て、これはキレイだと感じても、ジーっと見てみると飽きてしまうということを経験できます。飽きなかったら、渇愛が意門に、妄想に入っているんです。

我々が眼耳鼻舌身で感じるものは厳しくリミットされています。
posted at 20:15:25

空を見あげて眼を動かすと、無限の広さを見ているように勘違いします。それは眼ではなく、意でそう感じるんです。ジッと眼を動かさないで空を見ると限られた範囲しか見れないとわかります。しかし、意の場合はいくらでも感じることができます。

なぜ感じるかというと、何か触れないと感じないんです。
posted at 20:15:25

‘‘Katamo ca, bhikkhave, phasso?  
では比丘たちよ、いかなるものが〈触〉なのでしょうか。 
Chayime, bhikkhave, phassakāyā –  
比丘たちよ、これら六触身です。 

眼耳鼻舌身意のなかで、触れるという働きが起きるんですね。触れるということも組織で、六種類。
posted at 20:15:25

cakkhusamphasso, sotasamphasso, ghānasamphasso, jivhāsamphasso, kāyasamphasso, manosamphasso.  
眼触、耳触、鼻触、舌触、身触、意触です。

我々に理解が難しいのは、意にほんとうに触れますかと。触れるんです。身体に触れる場合はわかりやすい。直接触れないといけませんから。
posted at 20:15:25

光も音も、みな直接、感覚器官にぶつかっているんです。触れるためには触れる場所がないとね。それがアーヤタナ(処)六種類ですね。受信できる場所がないと触れないんですね。
posted at 20:15:26

‘‘Katamañca, bhikkhave, saḷāyatanaṃ?  
では比丘たちよ、いかなるものが〈六処〉なのでしょうか。 
Cakkhāyatanaṃ, sotāyatanaṃ, ghānāyatanaṃ, jivhāyatanaṃ, kāyāyatanaṃ, manāyatanaṃ –  
眼処、耳処、鼻処、舌処、身処、意処です。
posted at 20:15:26

それらの窓口で身体が成り立っているんです。身体は全体で反応しますけど、眼という一部の細胞だけが光(色)に反応する、耳という一部の細胞だけが音(声)に反応する。眼耳鼻舌身には二種類の対象に反応します。
posted at 20:27:01[01:2:01]

一つは身体に触れるもの。耳に何かが触れてかゆくなる場合は、聴覚が反応しているのではなくて、身体の触覚が反応しているんです。全ての細胞は身体(身)としてあつかっています。身はどんな細胞にも反応する能力があるのです。

六処がどのように生まれたかというと、ナーマ・ルーパ(名色)から六処が生まれたんです。ですから、次はナーマ・ルーパの説明になるんです。
posted at 20:27:01[01:28:01]

‘‘Katamañca, bhikkhave, nāmarūpaṃ?  
では比丘たちよ、いかなるものが〈名色〉なのでしょうか。 
Vedanā, saññā, cetanā, phasso, manasikāro – idaṃ vuccati nāmaṃ.
受、想、思、触、作意。これが〈名〉と言われるのです。
posted at 20:27:01[01:30:38]
受=感じること、想=ラベリング、概念をつくる 思=意志  作意=データを処理する働き→結果:考える
受は感じること、想はラベリング・概念化すること、思は意思・意欲、触は触れること。物質的な色もあるが、心の中に触れるということも起こる。でないと心は変わりません。manasikāraは作意と訳しますけど、なかなか理解しやすい単語はないのです。心にデータを入れて処理する仕事なんです。manasi心のなかで、kāra働く。要するに心の働きです。それらがナーマ(名)なんですね。
posted at 20:27:02

仏教では心といっても、一つの球のような心は考えてないんです。ここではVedanā, saññā, cetanā, phasso, manasikāroという四つの働きがありますね。
Saññā想とは、何を感じたかと概念をつくる。それが最初の概念で、それから意門で新たな、新たな概念を作ります。
たとえば、眼は色(いろ)に反応するだけ。眼に光が入った途端、その色データの概念を作っちゃうんです。その概念は基本的なもので、大したことは無いんです。
posted at 20:27:02

眼を開いたとたん、バラの花というデータを作ったわけではないんです。それから意門で、他のデータを入れて入れて新たな概念をたくさん作るんです。意門に概念工場があるんです。そこで眼から入ったデータに新たな概念を新たにたくさん付け加えて「バラの花だ」というデータを作る(捏造する)んです。
posted at 20:27:02

眼から入った色で基本的な概念マップを作る。それは瞬時に消えてしまう。それから意門に入れてプレセッシングして、どんどん新たに「バラの花」という概念を作る。その間、見ていないんです。「バラの花」は眼で見たものではないんです。「バラの花」という概念を作ってから、また見るかもしれません。
posted at 20:30:20

音楽を聴いても、聴いていない、音に反応しない(頭でプロセッシングしている)時間のほうが長いんです。その間で頭の中がものすごく働いていますから。心は停止しない。だから、我々はずっと音楽聴いていたんだと勘違いするんです。ですから、愛着なんかは外の世界と関係ないのです。全て(自分の)心が作るんです。ぜんぜん客観性ないんです。すべて主観なんです。
posted at 20:30:20

自分には自分の世界があって、自分が感動するものに他の人々は感動しないんです。自分は自分の世界にいるだけで、他人の世界を知る余地はないんですね。
posted at 20:33:12

人の話を聞く、他人の気持ちがわかると言っても、それは自分のプロジェクション(投影)だけで、単に「自分はそう思う」でしかないんです。Aさんが落ち込んでいる、ではなくて、「Aさんが落ち込んでいると私が妄想する」なんです。
posted at 20:33:12

受、想、思、触、作意 という順番にも意味があるんです。……手に何か触れたら、物体と物体が触れたことです。それは物質的な触なんです。でもそこに心が無かったら、「触れた」ということを知らないんです。いま我々は服を着ているけど、服が体に触れていることを知らないですね。
posted at 20:41:08(注:触には二種類ある。物質(感覚:眼処・・・身処)に触れることと、心(意)に触れること。ここでの触は、心に触れること。いわゆる、十二因縁の触は、物質(感覚)に触れること。)

でも、敢えて作意すると、服があるんだよと分かるんです。物質と物質はずっと触れているけど、作意(マナシカーラ)がないと感じない。作意を入れてみると、服があるとすぐ分かるでしょ?ですから、触とはほんとは心の作用なんです。物質と物質が触れることはそんなに気にすることじゃないんです。
posted at 20:41:09[01:46:11]

ただ、身体のなかでは、物質と物質の触ばかりでしょ!お互いに触れているでしょ!でも、(我々は、普段)大体は感じないね。感じよう(作意・マナシカーラを働かせよう)としたら感じます。手を見なくても、手を感じますよ。手を形作る細胞がお互いに触れていますから、その一部を感じるんです。(その)人の作意によって、どの程度、手を感じるのかということも差が生まれてくるんです。それは他人に教えることはできない。自分の手だからね。

瞑想するとき、皆さんは骨を感じないでしょ?感じられるはずなんです。
posted at 20:41:09

瞑想して、身体の骨格、骨組みそのものを感じることもできるようになる。それは心の作業なんです。「骨の随観」という瞑想ものもありますからね。目の前にある骸骨の頭蓋骨を見て、こちらの身体にも同じ形で頭蓋骨があるんだと。そうやって訓練すると頭蓋骨をまるまる感じられるようにある。それで、自分の骨組み全部感じられるようになる。さらに訓練すると、自分の頭で綺麗に自分の骨組みの画像を作れるようになるのです。
posted at 20:41:09

その修行が進むと自分の骨組みが感じられるだけではなく、映像でも見られるようになります。そうなると、他人を見る場合もマナシカーラが骨を見るように調整されて、相手の骨組みだけ見えるようになります。注釈書には、エピソードもありますよ。
posted at 20:47:50

あるお坊さんが骨の随観していた時に、近くの村の家で夫婦喧嘩が起きて、女が家を出ていった(スリランカは昔から女が強くて、女が家を出ていったら離婚成立。男にはどうしようもないんです)。男は何とかよりを戻したくて女を探す。
posted at 20:47:50

そこでお坊さんに「この辺で女が通らなかったか?」と訊く。お坊さん「女は見なかったけど、そういえば骸骨が一つ通ったような……」と答えたそうです。俗世間にいる人々は、骸骨だけ見えたら怖くなって心臓発作起こして死にますけどね。(笑)
posted at 20:47:50

(普通は)人間が見えたら、いちいち煩悩が生まれますけど、骨だけ見えたら煩悩は生まれないでしょ?

そういうことで、作意・マナシカーラによって、いろんな仕事ができるのです。私たちに言葉で言うと、考えるようなはたらきなのです。考えるとは、マナシカーラなのです。……心にデータを入れて処理することにマナシカーラと言うんです。難しい数学の問題を解こうとしたら、マナシカーラを感じることができます。
posted at 20:47:51

(この経典の)ここでは、識・ヴィンニャーナを使っていないのは、ヴィンニャーナというのは、できてからの結果なのです。識が起こる前の部品が、色・ナーマなのです。[01:57:17]

次は、色(物質)・ルーパの説明。

Cattāro ca mahābhūtā, catunnañca mahābhūtānaṃ upādāyarūpaṃ.  
四大種(地水火風)および四大種所造色(地水火風に伴って生まれる物質)。 
Idaṃ vuccati rūpaṃ.  
これが〈色〉と言われるのです。
posted at 20:49:45

四大種とは地水火風(物質は全部で32種で、そのなかの基本、四っつのこと)で、地水火風が集まると違う物質も生まれるんです。だけそれに四大種所造色と訳しているんです。組み立てることで現れるものです(原子と分子のような関係)。このようなものから、物質世界が現れるんです。
posted at 20:55:10

物体があって、物体の中に感じる能力、概念作る能力があるは、意志があるは……物質にはまったく関係ないものなんですね。物質の中で、物質を土台にして何か働きが起きているんです。それがナーマといはたらきになるのです。心というのは一つではないんです。組み合わさった分厚い束なんです。
posted at 20:55:11

西洋では、この分厚い束を一個にして、心を探しているんですから、見つかりっこないんです。西洋では「ある」という前提で探していますけど、仏教は「ある」という立場をとってないんです。「因縁により」ということですからね。
posted at 20:55:11

Iti idañca nāmaṃ, idañca rūpaṃ.  
かくのごときの、この〈名〉と、この〈色〉。 
Idaṃ vuccati, bhikkhave, nāmarūpaṃ. 
比丘たちよ、これが〈名色〉と言われるのです。
posted at 20:55:11

ナーマ・ルーパというシステムのなかで、六つのチャンネルが現れて認識することになる。そこから膨大な渇愛の流れが生まれるんです。[02:03:27]

物質に、突然「こころ」が現れて生命体になるわけではないんです。ヴィンニャーナがあって、ナーマ・ルーパが生まれるんです。では、ヴィンニャーナって何なのか?
posted at 20:55:11

‘‘Katamañca, bhikkhave, viññāṇaṃ?  
では比丘たちよ、いかなるものが〈識〉なのでしょうか。 
Chayime, bhikkhave, viññāṇakāyā –  
比丘たちよ、これら六識身です。
posted at 21:03:23

cakkhuviññāṇaṃ, sotaviññāṇaṃ, ghānaviññāṇaṃ, jivhāviññāṇaṃ, kāyaviññāṇaṃ, manoviññāṇaṃ.  
〔すなわち〕眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識です。 
Idaṃ vuccati, bhikkhave, viññāṇaṃ. 
比丘たちよ、これが〈識〉と言われるのです。
posted at 21:03:23

因果法則の難しいところがありますね。はじめに、ナーマという認識できる基本的な能力があって、ルーパという物体に入っている。ナーマ・ルーパがどう現れたかというと、ヴィンニャーナ(識)から現れたんだよと。そうなると、物質にヴィンニャーナが別なところから入らないといけないですね。それで輪廻の説明になっちゃうんですね。
posted at 21:03:23

じゃぁ、どこかにヴィンニャーナ倉庫があって、そこからナーマ・ルーパに入っていくのかというと、そうではなくて、いたって簡単で、ヴィンニャーナは眼耳鼻舌身意で認識することだと。しかし、そこで堂々巡りになっちゃうんですね。
posted at 21:03:23

ですから、言葉で因果法則は説明しにくくなる。わかりやすいのは、今やっているように、項目ごとに理解してみるだけなのです。そうすると、知恵ある人には、因果法則が何となく感じることができるのです。

私は因果法則というのはいろんなルーパが入っていて、ループばっかりであると。単一のループではないんです。複数のループが次から次へと回転しているんです。眼では、色があって、眼識が生まれて、感覚が生まれて、渇愛が生まれて、執着、有が生まれて、そこで一つのループ。また、耳にも十二因縁のループがあって、今ここに、六つのループが回転している。そこから、次へ、次へとループがつながっていくのですね。
posted at 21:03:24[02:08:32]

そこで、無常ですから、一つのループが、新たな、新たなループになる。今、我々に起きているのは、一本の因果法則ではなく、眼耳鼻舌身意という六本の因果法則が回転していて、その回転に「わたし」というラベルを貼っているんです。眼耳鼻舌身意の分厚いループの束を、さらに多重ループにすることもできる。そうなると、輪廻になるんですね。
posted at 21:03:24

なにかものが移転しているわけではなくて、無常だから成り立つ輪廻転生なんです。瞬間で消えて新たに生まれる、また瞬間で生まれて新たに生まれる。識も勝手に生まれるわけではなくて、サンカーラが生まれるから識が生まれるのんです。サンカーラは衝動のことでエネルギーのことで、身口意の三つがあります。体を動かすことによって、言葉を話すことによって、考えることによってポテンシャルが生まれる。考えることからは、膨大なポテンシャルが生まれ。
posted at 21:03:24

‘‘Katame ca, bhikkhave, saṅkhārā?  
では比丘たちよ、いかなるものが〈諸行〉なのでしょうか。 
Tayome, bhikkhave, saṅkhārā – kāyasaṅkhāro, vacīsaṅkhāro, cittasaṅkhāro.
比丘たちよ、これら三行です。〔すなわち〕身行、語行、意行です。
posted at 21:03:24

身体を動かすことも、言葉をしゃべることも、心の仕事なんです。それでまたポテンシャルが生まれる。考えるときにも、膨大なポテンシャルが生まれる。サンカーラが生まれたら、新しい識が生まれるんですね。……このセクションになってくると、もう説明できなくなるんですね。初めは簡単ですが、最後の方はものすごく難しくなってくるんです。
posted at 21:10:20

なぜ我々が身口意の行為をするのかというと、それは、アヴィッジャー(無明)があるからだと。無明とは、よく調べないということなんですね。調べる暇がないんです。ものすごい勢いで回転しているんですからね。
posted at 21:10:21[02:14:45]

アヴィッジャーとは何かと言えば。

Yaṃ kho, bhikkhave, dukkhe aññāṇaṃ, dukkhasamudaye aññāṇaṃ, dukkhanirodhe aññāṇaṃ, dukkhanirodhagāminiyā paṭipadāya aññāṇaṃ.  
比丘たちよ、およそ苦に関する無知、苦の生起に関する無知、苦の滅尽に関する無知、苦の滅尽へ導く道に関する無知。

これがavijjāだと言うのです。
posted at 21:10:21

そこでまた、私たちの生き方に戻るんですね。私たちが苦集滅道を知らないから、そこでサンカーラ(衝動)が生まれる。身口意の行為を行なっているときは、苦集滅道はまるっきり関係ない状態で(苦集滅道から離れて)、行なっているのです。そうするとサンカーラが生まれる。サンカーラが生まれたら、次の認識が生まれる。
posted at 21:10:21[02:16:17]

その認識が生まれたのは、この物体と触れる、作意などなどがあったからなのです。・・受、渇愛、執着、有が生まれ・・その有は、行・サンカーらと同じエネルギーで、はたらきが違うのです。「さらに生きてみよう」とするエネルギー。12因縁が回転する。壊れたら作る、壊れても、壊れても、作る。作ろうとするエネルギーがなければ作ることをしないのです。執着がなかったらもう次は作らなくなるのです。回転しなくなるのです。

ですから、修行する場合は、「アビッチャー無くせ」「執着をなくせ」と言う。

回転する因果の流れで、どこかのリンクを外さないといけないんです。なぜリンクを外したくないかというと、「生きることは苦」と分かってないからなんです。調べていないからなんです。生きることは楽しいという前提をつくって生きているんです。前提を作るといことは無明ということなのです。仏教では、前提は一つも認めずに、調べてみなさいと。
posted at 21:10:21

魂という言葉を使っていなくても、すべての生命は「有る」という前提で生きているんです。その前提から考えたことはすべてゴミなんです。仏教は前提を認めずに、まず調べる。
posted at 21:12:52

「私がいる」と思うなら、その実感はどこから生まれるのかと。「いると思うんだからいるに決まっている」という態度は取らない。なんでも疑問を持って調べるんです。私がいつも辛口で話するのも、そういう仏教的なアプローチからなんです。世の中がいうPRには乗らないんです。生命は全部自分で調べないでPRでやられちゃうのです。
posted at 21:12:52[02:21:48]


聴講者の質問:「生きることは楽しい」とか「魂がある」とか、実感に基づいた前提を作らないということですが、我々は、自分の死を体験することはできないです。すると、「私たちは死ぬに違いない」という前提を立てなけれ真理に近づくことができないのではないでしょうか?


長老の答え:それは少し違います。「死を体験しないと悟れませんよ」とは、どこにも言っていないのです。死随感というのは、愛着を少し減らすための準備瞑想です。愛着があまりにもありすぎると、知恵が現れませんし、解脱に達しません。煩悩はものすごい病気だとすると、どこから手を加えたら治せるかわからないのですね。それで、いろんな方法で病気を抑えようとするんです。それからしっかりと治療していくのです。

自我がものすごく強かったら、ヴィパッサナー冥想などできたものじゃないんです。その人たちには、別の瞑想を教えて、訓練して、瞬間、瞬間死ぬことを考えてくださいと。それは、考えることになっちゃうんですね。だけど、考えることが妄想にはならない。なぜなら、考えることが事実なのですから。

そういう思考をすると、恐ろしい渇愛や、怒りや、わがまま、それらが何となく馬鹿らしくなるのです。無くなったわけではないのです。でも馬鹿らしいのは、どうすればいいのかと。そこで、初めて観察することを教えるのです。

死を体験しなくればと悟れませんと言っちゃうと悟れません。解脱に達する為に、生きるとは苦であることを発見する。
そうすると、無明が消える。渇愛があるから苦が続くのだと発見する。

聴講者の質問:私は、「解脱に達する為には、私がいない」という仮説、前提を立てて修行しよと思うのですが?
長老の答え:仮説は、「私とは誰でしょうか?どこで、私という実感が生まれるのでしょうか」という仮説を作るのです。実際に「私がいる」という実感があるのですよ、「この実感はどのように現れるのか?」と調べるのです。「私がいない」という仮説は作らないのです。

[02:30:30]我々はこの世の中に生きているのだから、先のことを考えなくてはいけなくなる。先のことを考えなくてはいけなくなる。時計に関係なく日夜があるのだから。昼やること、夜やることが出てきちゃうのですね。将来考えたり。これで、頭の中がしちめんどくさくなるんですね。そうなってくると、私は、「今の瞬間しかない」と自分に言い聞かせるのです。「今の瞬間でやることをやればいい」と。それで、ずっと続けて、楽に生きるのです。

祈願文

Dukkhappattā ca niddukkhā
Bhayappattā ca nibbhayā
Sokapattā ca nissokā
Hontu sabbepi pāṇino

苦しんで悩む生命が苦しみなく、
おそれて悩む生命がおそれなく、
悲しんで悩む生命が悲しみなく、
一切の生命が安穏でありますように。



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