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「仏教への旅〜インド編」を読んでみた

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パティパタを読んひとり反省

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「仏教への旅〜インド編」を読んでみた

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法話メモ10月〜

ここは動画のない、法話メモのみの一覧です。
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2018・11・19_20(2011-11-29パーリ経典解説)法話メモ   更新11/25


2018・11・13(2018-10-05精神病理学会)講義メモ


2018・10・15(2011-12-06 横浜朝日カルチャー)講義メモ





柊の杜メニュー

法話メモ11/19_20

2018年11月19日(月)25 tweets
11月19日@jtba_talk
スマナサーラ長老の仏教法話@jtba_talk

(#jtba 2011年11月29日スマナサーラ長老のパーリ経典『月喩経』マハーカッサパ尊者と布施の話@ゴータミー精舎メモを連投します。)

Saṃyuttanikāyo Nidānavaggo 5.Kassapasaṃyuttaṃ 3. Candūpamasuttaṃ
パーリ相応部 因縁篇 5.カッサパ相応 3.月喩経
http://www.tipitaka.org/romn/cscd/s0302m.mul4.xml…
posted at 15:23:54

舎衛城因縁。candūpamā, bhikkhave, kulāni upasaṅkamatha – apakasseva kāyaṃ, apakassa cittaṃ, niccanavakā kulesu appagabbhā.これは出家に[向けて]語られた経典です。出家とは俗世間からきれいに離れる存在です。[かといって、]人間関係まで切っちゃったわけではないのです。
posted at 15:23:55

お布施という習慣は出家があるところになりたつことです。出家は何も持っていないから、ご飯もないし住むところもない。在家は財産持っているからその日その日のものを与えてあげる。それが布施です。いまは……宗教団体がお金集めしてますから……それってお布施にはならないかもしれませんね。
posted at 15:23:55

この経典は、出家が托鉢に出たりして在家とコンタクト取る時は「月の喩え」を憶えておきなさいと[いう戒めです]。「月の喩え」について経典は何も解説していません。注釈書ではいくらか、こうではないかという解釈をしている。満月のように円満に人格を整え、戒律を守って下を見て村に入りなさい、と。
posted at 15:23:55

それから、月の光は誰でも照らします。しかし月は誰にも挨拶もしない。誰かの何処かの場所を「ここが気に入った」と特別に照らすこともない。何のこともなく空を照らす。挨拶もしてくれないのに、人間は月が好きです。月を見て安らぎを感じるんです。月の光を見ると気分がよくなる、楽しくなるんです。
posted at 15:23:55

比丘たちを見ると一般の人々はそういう気分にならないといけないんですね。だから、私の方を観ないでください(笑) 鬼を見た気分になるかもしれません。出家は行儀作法を整えてきちんとしていないといけない。しかし、微塵も好ききらいがあってはいけない。いかなる関わりも持ってはいけない。
posted at 15:23:56

[それでも、]自分のサービスはしっかりする。皆に平等に、差別なく区別なく安らぎを与えるのです。当時の時代背景からいえば、出家が自分の家の前に来たらお布施する。来なかったらそれで終わりです。突然、家の前に月が現れたように、心に安らぎを感じてお布施して、終わり。
posted at 15:23:56

日本文化とは対極です。ペコペコとお礼しまくることはないのです。しかし黙っていても、観ただけで気分良くなるような人格者にならないといけないのです。微妙にでも人々の機嫌を取ることは、仏教では道徳違反です。
posted at 15:26:43

apakasseva kāyaṃ, apakassa cittaṃ 身を整え、心を調え (Seyyathāpi , bhikkhave, puriso jarudapānaṃ vā olokeyya pabbatavisamaṃ vā nadīviduggaṃ vā – )
posted at 15:26:44

喩え:古井戸(jarudapāna )、山の崖(pabbatavisama)、川の淵(nadīvidugga)を覗こうとするときは、相当気をつける。そのような心境で在家と接するのです。(在家生活に)惹かれてはならない、というふうに自分の心を戒めておかないといけない。これは……訳せない単語です。
posted at 15:26:44

[在家と]関係を作らない。かといって、無関係という単語はよくない。深い井戸を覗いているような気分で注意して心を調えるんです。喩えで憶えておけばいい[でしょう]。垂直の崖から下を見る、引っ張られて落ちないように、自分を引き離す気持ちで見る。そのような気持ちで在家と接しないといけない。
posted at 15:26:44

apakasseva kāyaṃ, apakassa cittaṃ 身を整え、心を調え ………初期仏教では在家の生活に合わせることはしない。服装も釈尊のころからそのままです。そのように身体を整えておく。それから、心を調える。
posted at 15:26:45

注釈書によれば、ある比丘が森に住む。森にいたらその人は当然、身体が俗から離れています。それでも、心で欲やら怒りや害意で妄想していたら、心は俗から離れていないのです。心も俗から離れなくてはいけない。両方整えないといけないのです。
posted at 15:38:15

niccanavakā kulesu appagabbhā 在家に対していつも、『今日初めて会った』という気分でいないといけない。注釈書:インドの客(旅人)は食事をもらって食べて自分の器を持ってそのまま帰る。家の仕事を手伝ったりするのは「仲間」です。
posted at 15:38:15

※インドでは、客は自分の器を持っていかないといけなかったのです。カースト制度があるので、家の器を使わない。出家はその旅人の気分、新人の気分でいないといけない。いつも行く家で托鉢しても、関わりを持つなよと。nicca常にnavaka新人の気持ちでいるのです
posted at 15:38:15

それから、appagabbha 控えめでいること。ぜったい調子に乗ってはいけない。行儀作法よく、謙虚に大人しくしているのです。出しゃばってしゃべらない。在家が出家に質問することがあります。その場合は、いちばん長老が応えるのです。目上の人が、能力がある人に答えなさいと指名することもあります。
posted at 15:38:16

しかし、いくら能力があっても、長老から指名されるまでは喋らないのです。時々、自分からしゃしゃり出て答える比丘もいます。これは出家には禁止なのです。
posted at 15:38:16

出家は人の話に割り込んだり、質問をさえぎったりしない。返事すべき人が相手の話が終ったところで話をする。二人が同時にはしゃべらない。出家の世界はいつも静かです。誰かがしゃべっていたとしても、静か。最近の出家とはずいぶん違います。
posted at 15:38:16

話す時だけではなく、思考にも行儀作法があります。なんでも考えていいわけではない。正思惟を考えるのであって、無常について考える[のです。]俗世間の事をあれこれ考えてはいけない。心まで調えなくはいけない。それをパーリ語でappagabbhaと言います。慈経mettasutta にも、その言葉が出てきます。
posted at 15:45:13

釈尊は道徳を設定して語ったが、皆が完璧に守っていたわけではない。わざわざ仰るということは、何か問題があったから[でしょう]。デーヴァダッタ(提婆達多)は一つも守っていなかった。在家(アジャセ王)とぴったりコネを作って、一般人に気に入られるようにふるまったのです。
posted at 15:45:14

在家の機嫌をとったり、自分の顔や名前が知られるようにしたり……それはブッダの薦める生き方とは違うのです。お釈迦さまは、Kassapo, bhikkhave, candūpamo kulāni upasaṅkamati 「マハーカッサパ(摩訶迦葉)尊者は月の喩えのとおり托鉢しますよ」と、尊者を模範例として出したのです。
posted at 15:45:14

マハーカッサパ尊者は、よくアーナンダ尊者を叱りました。アーナンダ尊者の直接の師匠はマハーカッサパ尊者です。アーナンダ尊者は釈尊の側近で秘書だったので、在家とよく接触し[てい]ました。マハーカッサパ尊者はそれが気に入らなかったのです。[それで、]『君はだらしない』と叱ったのです。
posted at 15:45:14

アーナンダ尊者は黙って聞くしかなかったんです。マハーカッサパ尊者は厳しく道徳を守っていました。村に入らず、洞窟に住んだのです。他のお坊さんのところにも行かなかった。
posted at 15:45:14

面会に来た若い僧侶が、洞窟の天井の装飾に気づいて褒めると、一言「君たちに目があって良かったね」と。カッサパ尊者は全く無関心だったのです。
posted at 15:45:14

道徳的な生き方とは、ただ項目を守ればいい、ということではありません。月の喩えのように、心身を調え、いつでも新人の気持ちで、けっして調子に乗らない[ことなのです]。マハーカッサパ尊者はそれを完璧に実践していたのです。(続く)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
posted at 15:45:15



2018年11月20日(火)77 tweets
11月20日@jtba_talk
スマナサーラ長老の仏教法話@jtba_talk

控えめに実況中継いたします。Vibhaṅgasuttaṃ「分別経」(『相応部』12-2)続きです。 https://twitter.com/jtba_info/status/1064818312947867648…
posted at 18:51:19

‘‘Katamā ca, bhikkhave, taṇhā?  
では比丘たちよ、いかなるものが〈渇愛〉なのでしょうか。 
Chayime, bhikkhave, taṇhākāyā
比丘たちよ、これら六愛身です。

これは、六種類の渇愛組織がある、ということなんです。身というのはシステムのことです。パーリ語のカーヤは言語学的には「からだ」
posted at 19:22:43

と訳するしかないんですが、実際にパーリ語を使っている我々は、組織、システムという意味で理解しています。しかし、現代のシステムというアイデアが注釈書時代には無かったんです。英語でも、身(body)は組織・システムという意味なんです。単一のものではない、という。
posted at 19:22:43

アーリア言語家族を使っている人にとっては、カーヤ=組織・システムとすんなり取れるんですが……日本語にはそういうニュアンスが入らないようです。

渇愛、タンハーというのは、もっと欲しいという意味なんですね。足らない、もっとあっても悪くないと。渇愛には同義語がたくさんあります。
posted at 19:22:43

アーサワ(漏)という場合は、内から外に漏れる、という意味で(心の)汚れなんです。それぞれの文脈で、(煩悩・渇愛)の働きをみて言葉を選ぶんです。それからタンハーの説明に入ります。タンハーとは、もっと欲しい、という、渇愛、満たせない状態です。四聖諦では、三つの渇愛としています。
posted at 19:22:43

カーマタンハー、バワタンハー、ヴィバワタンハー。(この経典で取り上げている)因果法則の説明は、四聖諦の二番目の説明なんです。これは理解しやすいと思います。六つの渇愛組織とは、眼耳鼻舌身意の六つです。眼で見て、耳で聞いて……渇愛が生まれるんですね。
posted at 19:22:43

こちらで執着(渇愛)が生まれるんですね。外の世界は管理できないものですけど、認識した途端に渇愛が生まれる。それが悩み苦しみの原因になっちゃう。見えるのはすべて外のものなんです。外のものが何か悪いことをしているわけじゃないんです。公園の花は人間を地獄に落とそうとは思ってないんです。
posted at 19:22:44

我々が花を見て、「花がキレイ」と思った途端に、どれだけ大変な世界が生まれていますかね?花の生け方があって、たくさん家元があったりして。花にとってはえらい迷惑なんですね。人間の欲のせいで……。花に限らず見るものに何かしら感情を作るんです。それですごく苦しい世界が、一つのシステムが
posted at 19:26:03

生まれるんです。単一で欲が生まれるわけではないんです。因果法則ではそれをすごく気をつけて言っている。組み立てることで欲が生まれただけ。部品を組み立てなかったら、現象はあらわれないんです。因縁によって現れたとは、すごく俗っぽく言えば、組み立てて現れたということなんです。
posted at 19:26:03

組み立てたものだからいつでも一時的なんですね。長持ちするものではないんです。目を通して、渇愛という組織があります。感じたものに対して感情を作ったというシステムになる。それで眼耳鼻舌身意まで行くんです。我々があまり理解しないのは、意と法の関係です。
posted at 19:28:45

意門で、身体を使っても使わなくても意が活動する。眼耳鼻舌身は道具として理解する。意門の場合は道具を使わないで直接理解する。それ、すごく人々に理解しにくいところなんです。耳に音が触れる、パッサ(触)が生まれるというのは分かりやすい。触れて耳識が生まれてします。
posted at 19:35:19

意にも法という現象が触れるんです。それ理解が難しい。身体に何か触れるように、意にも何かが触れて、感じるんです。意で感じる場合は、感じる対象は心の中にあるんです。識(ヴィンニャーナ)の中に対象があるんです。触れると言ったら、同じものだから分からなくなるんです。
posted at 19:35:20

瞑想して自分の心をじっと観察すると、意に対象が触れることを観察することができます。微妙にものごとを観察する人だったらね。データは過去のデータでも、未来のデータでも、現在のデータでも、実際にないあり得ないものでも、意で考えることができます。
posted at 19:35:20

決してあり得ない、ありっこないものでも、考えることできます。だからすごくややこしいんです。それから、人間に執着あるから、考えたことが一番正しいと思っているんです。見たこと聞いたことより、考えたことにすごく執着持っているんです。
posted at 19:35:20

なぜ妄想切れないかというと派手な執着があるからです。妄想は好きでやってる、意図的にやっているんです。例えば、自分が気に入っている花への執着を捨てることは、そんなに難しくないんです。眼耳鼻舌身の愛着というのは、その気になれば捨てられます。
posted at 19:35:20

我々は簡単にものを交換したり、腕を振るった料理を皆に食べさせてあげたりするんです。しかし、自分の妄想に何か言っちゃうと……激怒して腹が立つんですね。それだけは変えたくないんです。ただの妄想なんですけど。まったくいい加減で事実ではないし。
posted at 19:35:20

政治の世界でよくみられることで、人々は好みの党をつくる。何かのPRをして、自分がこの党が好きだとなったら、そう簡単には変わりません。いくらしゃべっても、データ出しても、変えられないんですね。宗教も同じです。そこに愛着が起きたら、変えることはなかなか難しくなるんですね。
posted at 19:35:21

そうやって変えない考えがたくさんあるんです。それにものすごく執着している。智慧を開発するためには、これはすごく邪魔なんです。いくらデータを入れても自分の偏見で処理してしまうんです。だから真理を教えても、そのまま頭に入らないんです。
posted at 19:39:52

その人間のハンディを何とかすれば、いろんなことを勉強できるようになります。意門に起こる知識への執着はものすごく強い。そのように渇愛が六つの組織に分かれて活動します。渇愛自体は一つだから、六つの組織からつくる渇愛は強烈になるんです。渇愛自体にタンハーカーヤ―ともいうんですね。
posted at 19:39:52

解脱に達することができない、心を自由にできない理由は、渇愛が強烈に働くからなんです。要するに渇愛があるから、眼耳鼻舌身意に入る色声香味触法という情報が欲しくてたまらない。たとえば、金銭に対する渇愛を無くすと言った場合は、「では金銭とは何ですか?」と分析しないといけないんです。
posted at 19:39:53

「金銭に対する愛着って何ですか?」と分析するんです。渇愛は眼耳鼻舌身意の感覚に生まれるものなんです。我々は金銭の色や形に愛着持っている?そうではないでしょう。世間の考えでは問題解決していないのはそういうわけで、
posted at 19:46:26

仏教的に分析してみると、われわれは金銭に愛着があるわけではなくて、眼耳鼻舌身意に触れる情報に愛着を感じているんです。金銭に愛着があると言っても、眼耳鼻舌身意に触れる色声香味触法の情報について、欲が生まれているんです。
posted at 19:46:26

俗世間的には、家に、車に、金に、いろんなものに現象的に執着があるけど、そこは分析してほしいんです。渇愛は色声香味触法に生まれるもので、色声香味触法が得られないならば、車には愛着生まれません。色声香味触法が買うことできなかったら、金の意味が無いんです。
posted at 19:50:37

皆様の手に千円札と10ドル札がある。どちらに執着生まれますか?千円札なんです。すぐに色声香味触法に変えられますから。10ドル札の場合は、「これで海外に行ったら何か買えるでしょう」と、妄想思考で愛着を作るんです。思考には膨大な、限りない渇愛が生まれるんです。一番怖いのはそこなんです。
posted at 19:54:51

味に渇愛あっても、限りなく味わいたいということは不可能でしょう。味わえるものにはリミットがあります。あまり同じ味を味わうと、舌が拒否するんです。舌の物質が電気信号を送らなくなる。食べる人にも面白くなくなっちゃうんです。音も他のものも、同じことです。
posted at 19:54:52

見るものも、ジッと見ているとつまらなくなっちゃう。感動は一度きりで終わっちゃうんです。しかし、心に生まれる愛着はそうではない。わけのわからないものに愛着してしまう。ブランド品に愛着があると、あらゆるものを同じブランドでそろえてしまう。
posted at 19:54:52

身体に触れるのはどってことないけど、頭で妄想の世界に入って喜んでいるんです。ボールペンだったら100円で6本入ってるのもあるし、一本20万円のボールペンもある。何が違うかというと、何も違わないんです。書くという機能は同じですから。
posted at 19:55:59

その場合、渇愛はどこにあるんですかね? 思考に、妄想にあるんです。ダイヤの指輪が欲しい、となったら渇愛はどこにあるんですかね?思考に、妄想にあるんです。出家に金銀宝石などを禁止しているのは、そこからすごい妄想の渇愛が出てくるし、それで生まれる苦しみが多いからなんですね。
posted at 20:01:04

100円のボールペンが無くなったらといって探す?あれ、無いみたい、で終わりでしょう。では、20万円のボールペンが無くなったら?
posted at 20:01:04

気をつけるべきところは、眼耳鼻舌身よりは意で生まれる渇愛は膨大な量があるということです。それにかなり引っかかります。色声香味触で触れるものに渇愛あると、死んでから餓鬼道に堕ちるんですね。その程度です。意で触れるものに愛着あると……生まれる渇愛の量が膨大なんです。
posted at 20:15:24

意で感じるものには、いくらやっても飽きないんです。それは輪廻を超えるための障害になっています。

はい、次に行きましょう。因果法則の解説は簡単なところから、難しいところに行くんです。ヴェーダナー(受)から渇愛が生まれるので、ヴェーダナーの解説に移ります。
posted at 20:15:24

‘‘Katamā ca, bhikkhave, vedanā?  
では比丘たちよ、いかなるものが〈受〉なのでしょうか。
Chayime, bhikkhave, vedanākāyā
比丘たちよ、これら六受身です。

感じるチャンネルも六つありますね。眼耳鼻舌身意で色声香味触法を感じるんです。
posted at 20:15:24

眼で何かを見て、これはキレイだと感じても、ジーっと見てみると飽きてしまうということを経験できます。飽きなかったら、渇愛が意門に、妄想に入っているんです。

我々が眼耳鼻舌身で感じるものは厳しくリミットされています。
posted at 20:15:25

空を見あげて眼を動かすと、無限の広さを見ているように勘違いします。それは眼ではなく、意でそう感じるんです。ジッと眼を動かさないで空を見ると限られた範囲しか見れないとわかります。しかし、意の場合はいくらでも感じることができます。

なぜ感じるかというと、何か触れないと感じないんです。
posted at 20:15:25

‘‘Katamo ca, bhikkhave, phasso?  
では比丘たちよ、いかなるものが〈触〉なのでしょうか。 
Chayime, bhikkhave, phassakāyā –  
比丘たちよ、これら六触身です。 

眼耳鼻舌身意のなかで、触れるという働きが起きるんですね。触れるということも組織で、六種類。
posted at 20:15:25

cakkhusamphasso, sotasamphasso, ghānasamphasso, jivhāsamphasso, kāyasamphasso, manosamphasso.  
眼触、耳触、鼻触、舌触、身触、意触です。

我々に理解が難しいのは、意にほんとに触れますかと。触れるんです。身体に触れる場合はわかりやすい。直接触れないといけませんから。
posted at 20:15:25

光も音も、みな直接、感覚器官にぶつかっているんです。触れるためには触れる場所がないとね。それがアーヤタナ(処)六種類ですね。受信できる場所がないと触れないんですね。
posted at 20:15:26

‘‘Katamañca, bhikkhave, saḷāyatanaṃ?  
では比丘たちよ、いかなるものが〈六処〉なのでしょうか。 
Cakkhāyatanaṃ, sotāyatanaṃ, ghānāyatanaṃ, jivhāyatanaṃ, kāyāyatanaṃ, manāyatanaṃ –  
眼処、耳処、鼻処、舌処、身処、意処です。
posted at 20:15:26

それらの窓口で身体が成り立っているんです。身体は全体で反応しますけど、眼という一部の細胞だけが光(色)に反応する、耳という一部の細胞だけが音(声)に反応すると。眼耳鼻舌身には二種類の対象に反応します。
posted at 20:27:01

一つは身体に触れるもの。耳に何かが触れてかゆくなる場合は、聴覚が反応しているのではなくて、身体の触覚が反応しているんです。

六処がどのように生まれたかというと、ナーマ・ルーパ(名色)から六処が生まれたんです。ですから、次はナーマ・ルーパの説明になるんです。
posted at 20:27:01

‘‘Katamañca, bhikkhave, nāmarūpaṃ?  
では比丘たちよ、いかなるものが〈名色〉なのでしょうか。 
Vedanā, saññā, cetanā, phasso, manasikāro – idaṃ vuccati nāmaṃ.
受、想、思、触、作意。これが〈名〉と言われるのです。
posted at 20:27:01

受は感じること、想はラベリング・概念化すること、思は意思・意欲、触は心にも置きます。manasikāraは作意と訳しますけど、心にデータを入れて処理する仕事なんです。manasi心のなかで、kāra働く。要するに心の働きです。それらがナーマ(名)なんですね。
posted at 20:27:02

仏教では心といっても、一つの球のような心は考えてないんです。ここではVedanā, saññā, cetanā, phasso, manasikāroという四つの働きがありますね。

眼は色(いろ)に反応するだけ。眼に光が入った途端、その色データの概念を作っちゃうんです。その概念は基本的なもので、大したことは無いんです。
posted at 20:27:02

眼を開いたとたん、バラの花というデータを作ったわけではないんです。それから意門で、他のデータを入れて入れて新たな概念をたくさん作るんです。意門に概念工場があるんです。そこで眼から入ったデータに新たな概念を新たにたくさん付け加えて「バラの花だ」というデータを作る(捏造する)んです。
posted at 20:27:02

眼から入った色で基本的な概念マップを作る。それは瞬時に消えてしまう。それから意門に入れてプレセッシングして、どんどん新たに「バラの花」という概念を作る。その間、見ていないんです。「バラの花」は眼で見たものではないんです。「バラの花」という概念を作ってから、また見るかもしれません。
posted at 20:30:20

音楽を聴いても、聴いていない、音に反応しない(頭でプロセッシングしている)時間のほうが長いんです。その間で頭の中がものすごく働いていますから。心は停止しない。だから、我々はずっと音楽聴いていたんだと勘違いするんです。ぜんぜん客観性ないんです。すべて主観なんです。
posted at 20:30:20

自分には自分の世界があって、自分が感動するものに他の人々は感動しないんです。自分は自分の世界にいるだけで、他人の世界を知る余地はないんですね。
posted at 20:33:12

人の話を聞く、他人の気持ちがわかると言っても、それは自分のプロジェクションだけで、単に「自分はそう思う」でしかないんです。Aさんが落ち込んでいる、ではなくて、「Aさんが落ち込んでいると私が妄想する」なんです。
posted at 20:33:12

受、想、思、触、作意 という順番にも意味があるんです。……手に何か触れたら、物体と物体が触れたことです。それは物質的な触なんです。でもそこに心が無かったら、「触れた」ということを知らないんです。いま我々は服を着ているけど、服が体に触れていることを知らないですね。
posted at 20:41:08

でも、敢えて作意すると、服があるんだよと分かるんです。物質と物質はずっと触れているけど、作意(マナシカーラ)がないと感じない。作意を入れてみると、服があるとすぐ分かるでしょ?ですから、触とはほんとは心の作用なんです。物質と物質が触れることはそんなに気にすることじゃないんです。
posted at 20:41:09

手を見なくても、手を感じますよ。手を形作る細胞がお互いに触れていますから、その一部を感じるんです。人の作意によって、どの程度、手を感じるのかということも変わってくるんです。瞑想するとき、皆さんは骨を感じないでしょ?感じられるかずなんです。
posted at 20:41:09

瞑想して、身体の骨格、骨組みそのものを感じることもできるようになる。それは心の作業なんです。骨の随観というものもありますからね。目の前にある骸骨の頭蓋骨を見て、こちらの身体にも同じ形で頭蓋骨があるんだと。そうやって訓練すると頭蓋骨をまるまる感じられるようにある。
posted at 20:41:09

その修行が進むと自分の骨組みが感じられるだけではなく、映像でも見られるようになります。そうなると、他人を見る場合もマナシカーラが骨を見るように調整されて、相手の骨組みだけ見えるようになります。注釈書にはエピソードもありますよ。
posted at 20:47:50

あるお坊さんが骨随観していた時に、近くの村の家で夫婦喧嘩が起きて、女が家を出ていった(スリランカは昔から女が強くて、女が家を出ていったら離婚成立。男にはどうしようもないんです)。男は何とかよりを戻したくて女を探す。
posted at 20:47:50

そこでお坊さんに「この辺で女が通らなかったか?」と訊く。お坊さん「女は見なかったけど、そういえば骸骨が一つ通ったような……」と答えたそうです。俗世間にいる人々は、骸骨だけ見えたら怖くなって心臓発作起こして死にますけどね。
posted at 20:47:50

修行しているお坊さんはそんなことはないので。人間が見えたら、いちいち煩悩が生まれますけど、骨だけ見えたら煩悩は生まれないでしょ?

……心にデータを入れて処理することにマナシカーラと言うんです。難しい数学の問題を解こうとしたら、マナシカーラを感じることができます。
posted at 20:47:51

次は、色(物質)の説明。

Cattāro ca mahābhūtā, catunnañca mahābhūtānaṃ upādāyarūpaṃ.  
四大種および四大種所造色。 
Idaṃ vuccati rūpaṃ.  
これが〈色〉と言われるのです。
posted at 20:49:45

四大種とは地水火風のことです。地水火風が集まると違う物質も生まれるんです。それに四大種所造色と訳しているんです。組み立てることで現れるものです(原子と分子のような関係)。このようなものから、物質世界が現れるんです。
posted at 20:55:10

物体があって、物体の中に感じる能力、概念作る能力があるわ、意志があるわ……物質にはまったく関係ないものなんですね。物質の中で、物質を土台に相手何か働きが起きているんです。それがナーマというんです。心というのは一つではないんです。組み合わさった分厚い束なんです。
posted at 20:55:11

西洋では単一の心を探しているんですから、見つかりっこないんです。西洋では「ある」という立場で探していますけど、仏教は「ある」という立場ではないんです。「因縁により」ということですからね。
posted at 20:55:11

Iti idañca nāmaṃ, idañca rūpaṃ.  
かくのごときの、この〈名〉と、この〈色〉。 
Idaṃ vuccati, bhikkhave, nāmarūpaṃ. 
比丘たちよ、これが〈名色〉と言われるのです。
posted at 20:55:11

ナーマ・ルーパというシステムのなかで、六つのチャンネルが現れて認識することになる。そこから膨大な渇愛の流れが生まれるんです。

物質に、突然「こころ」が現れて生命体になるわけではないんです。ヴィンニャーナがあって、ナーマ・ルーパが生まれるんです。では、ヴィンニャーナって何なのか?
posted at 20:55:11

‘‘Katamañca, bhikkhave, viññāṇaṃ?  
では比丘たちよ、いかなるものが〈識〉なのでしょうか。 
Chayime, bhikkhave, viññāṇakāyā –  
比丘たちよ、これら六識身です。
posted at 21:03:23

cakkhuviññāṇaṃ, sotaviññāṇaṃ, ghānaviññāṇaṃ, jivhāviññāṇaṃ, kāyaviññāṇaṃ, manoviññāṇaṃ.  
〔すなわち〕眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識です。 
Idaṃ vuccati, bhikkhave, viññāṇaṃ. 
比丘たちよ、これが〈識〉と言われるのです。
posted at 21:03:23

ナーマというのは、認識できる基本的な能力があって、ルーパという物体に入っている。ナーマ・ルーパがどう現れたかというと、ヴィンニャーナ(識)から現れたんだよと。そうなると、物質にヴィンニャーナが別なところから入らないといけないですね。それで輪廻の説明になっちゃうんですね。
posted at 21:03:23

じゃぁ、どこかにヴィンニャーナ倉庫があって、そこからナーマ・ルーパに入っていくのかというと、そうではなくて、ヴィンニャーナは眼耳鼻舌身意で認識することだと。そこで堂々巡りになっちゃうんですね。
posted at 21:03:23

ですから、因果法則は説明しにくくなる。私は因果法則というのはいろんなルーパが入っていて、ループばっかりであると。単一のループではないんです。複数のループが次から次へと回転しているんです。
posted at 21:03:24

起きているのは一本の因果法則ではなく、眼耳鼻舌身意という六本の因果法則が回転していて、その回転に「わたし」というラベルを貼っているんです。眼耳鼻舌身意の分厚いループの束を、さらに多重ループにすることもできる。そうなると、輪廻のスケールになるんですね。
posted at 21:03:24

なにかものが移転しているわけではなくて、無常だから成り立つ輪廻転生なんです。瞬間で消えて新たに生まれる、また瞬間で生まれて新たに生まれる。識も勝手に生まれるわけではなくて、サンカーラが生まれるから識が鵜案れるんです。サンカーラは衝動のことで、三つあります。
posted at 21:03:24

‘‘Katame ca, bhikkhave, saṅkhārā?  
では比丘たちよ、いかなるものが〈諸行〉なのでしょうか。 
Tayome, bhikkhave, saṅkhārā – kāyasaṅkhāro, vacīsaṅkhāro, cittasaṅkhāro.
比丘たちよ、これら三行です。〔すなわち〕身行、語行、意行です。
posted at 21:03:24

身体を動かすことも、言葉をしゃべることも、心の仕事なんです。それでまたポテンシャルが生まれる。考えるときにも、膨大なポテンシャルが生まれる。サンカーラが生まれたら、新しい識が生まれるんですね。……このセクションになってくると、もう説明できなくなるんですね。
posted at 21:10:20

なぜ我々が身口意の行為をするのかというと、それは、アヴィッジャー(無明)があるからだと。無明とは、よく調べないということなんですね。調べる暇がないんです。ものすごい勢いで回転しているんですからね。
posted at 21:10:21

Yaṃ kho, bhikkhave, dukkhe aññāṇaṃ, dukkhasamudaye aññāṇaṃ, dukkhanirodhe aññāṇaṃ, dukkhanirodhagāminiyā paṭipadāya aññāṇaṃ.  
比丘たちよ、およそ苦に関する無知、苦の生起に関する無知、苦の滅尽に関する無知、苦の滅尽へ導く道に関する無知。

これがavijjāだと言うのです。
posted at 21:10:21

そこでまた、私たちの生き方に戻るんですね。私たちが苦集滅道を知らないから、そこでサンカーラ(衝動)が生まれる。サンカーラが生まれたら、次の認識が生まれる……
posted at 21:10:21

回転する因果の流れで、どこかのリンクを外さないといけないんです。なぜリンクを外したくないかというと、「生きることは苦」と分かってないからなんです。調べていないからなんです。生きることは楽しいという前提をつくって生きているんです。仏教では、前提は一つも認めずに、調べてみなさいと。
posted at 21:10:21

魂という言葉を使っていなくても、すべての生命は「有る」という前提で生きているんです。その前提から考えたことはすべてゴミなんです。仏教は前提を認めずに、まず調べる。
posted at 21:12:52

「私がいる」と思うなら、その実感はどこから生まれるのかと。「いると思うんだからいるに決まっている」という態度は取らない。なんでも疑問を持って調べるんです。私がいつも辛口で話するのも、そういう仏教的なアプローチからなんです。世の中がいうPRには乗らないんです。
posted at 21:12:52

祈願文

Dukkhappattā ca niddukkhā
Bhayappattā ca nibbhayā
Sokapattā ca nissokā
Hontu sabbepi pāṇino

苦しんで悩む生命が苦しみなく、
おそれて悩む生命がおそれなく、
悲しんで悩む生命が悲しみなく、
一切の生命が安穏でありますように。



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法話メモ11/13

2018年11月13日(火)20 tweets
スマナサーラ長老の仏教法話@jtba_talk

(#jtba 2018-10-05 精神病理学会第41回大会@神戸 https://www.pspa41.com/ スマナサーラ長老特別講演 "「心の科学」としての仏教" の講義メモを主催者よりご提供いただきました。これから連投します。)

仏教(お釈迦様が説いた仏教)では、心の問題や心の病気について、問題点を観察し分析し原因を整理して、対策をたてます。そこには神秘的なシンボルや呪文は一切ありません。理性的にものごとを観察する[だけ]。

だから、予め何かを信じないと理解できない、実践できないということは全くないのです。仏教は宗教ではなく、心の科学なのです。

生命は物質からできています。しかし、物質の寄せ集め以上のもの。物質(物体)は高いところから下に落ちたら、自然に上に戻るということはない。それが自然法則です。

そういった自然法則に逆らう機能を総称して、生命というのです。生命機能の中でも、心はまさに“全知全能”です。生命を管理・運営する。そして、なんでもできる(=どんなハチャメチャなことでも考えることができる:妄想)[ものなのです]。

■心の4つの機能
 仏教では、心の機能には4つあると考えます(=心の機能を4つに分けます)。
1.感じる vedanā(受)
 窓口にデータが入ってくるということ。
  窓口とは:眼・耳・鼻・舌・身・意
  データとは:色・声・香・味・触・法

2.感覚にラベルを貼る saññā(想)
3.衝動、感情saṅkhāra(行)
4.認識するviññāṇa(識)

■認識の流れ
 こころは一つではありません。一つの認識が終わったら、次の認識が起きます。次から次へと際限がないのです。
 そのとき、過去の感覚・概念・衝動・認識が新たな認識に影響を与えます。

つまり、人間はその都度眼の前にあるものを見ているつもりになっているが、実は過去の認識をそこで再現しているのです。それどころか、先に判断して、あとから見ている。先入観、固定観念、偏見、さらには期待とか欲望が認識に先立ってあるのです。

人間の認識は、その人の価値観システムによって管理されています。そこに自由はないのです。

生命は各々の主観の世界で生きています。だから、他人をわかろうとはしないこと[になっている]。そうではなくて、多様性を尊重することこそが必要なのです。

自分の主観が普遍的な真理であると勘違いするところから、人間の悩み・苦しみが生まれる。戦争も起きる。宗教だって、自分たちの“真理”が絶対に正しいと思っているから、戦争を起こすのです。

ここで一つの結論:「世界を知る」とは個の感じる世界であって、客観的な世界を正しく知ったということではない。

■誤作動の原因
心に悪感情を起こし、心の誤作動の原因となるものにはいろいろあるが、貪・瞋・痴が重要です。
1.貪: 欲望。「快」をもっと欲しいと思うこと。
2.瞋: 怒り。「不快」を遠ざけたいと思うこと。悲しみ、恐怖もここに含まれる。
3.痴: 無知。真理を見失い、根拠のないことを信じること。

■治療法
まずは、悪感情と反対の感情(不貪・不瞋・不痴)を意図的に育てること。
そして、善感情を育てる。慈・悲・喜・捨、無常随念、苦随念などを念じて思考パターンを変える。それで価値観が変わります。
最終手段として、先入観・固定観念を使わずに認識する訓練をします。

基本は「慈悲の瞑想」です。「私は幸せでありますように」から始めて、それを広げていき、「生きとし生けるものが幸せでありますように」と念じる。これを実践するだけで思考パターンは変わり、価値観は変わり、人格は向上します。

悪感情は思考の中で繁殖します。[ですから、]先入観や固定観念を使わずに認識すること。感覚から自我の錯覚と渇愛が生じるので、五根(眼・耳・鼻・舌・身)への愛着を捨てるのです。心が作り出したイメージや思考を一切排除して、科学的にものごとを観察するのです。

この観察による気づき(sati)の瞑想(ヴィパッサナー)は、他の宗教や修行法にはない仏教のオリジナルなものです。(一方、他宗教の瞑想は集中瞑想です。マインドコントロールに利用される危険性があります。その点、仏教の瞑想は完全に安全です!)

要は、「感覚のところで止める」ということ。「感じるだけ感じて、放っておく」。ふつうは、感覚からさまざまな感情や欲望が生じるところだが、観察モードで生きることで、自動的に起こってしまう制御不能な思考や感情(煩悩)を止めてみるのです。

感覚から煩悩が生じるのは、生命がオートモードで認識していることなのだけれど、それを邪魔するのです。

具体的には、自分の感覚をせわしく実況中継します。静座して腹式呼吸をしているときに、自分の腹壁の動きを「膨らみ、膨らみ、縮み、縮み」と心の中で実況中継する。

歩くとか、日常生活動作においても、自分の動作や感覚を実況中継する。そうしていると、思考が介入してくる余地がありません。誤作動のない心の働きが実現します。(終わり)

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

追伸:講演を聴いた大会参加者の感想より

「心の問題を整理して分析して対策をたてる、って、これはそのまま精神医学だ」
「微塵も神秘的な内容がなくて感動した」
「“仏教は宗教ではない”と はこういう意味だったのか」
「“治療論”のところ、もう少し詳しく聴きたかった」等々。




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