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瞑想に取り組んでぶつかる壁

釈迦尊の教え・あなたとの対話 疑問・質問・反論のページ
【3】 冥想に取り組んでぶつかる璧
Q: 先月は、冥想中の眠気と妄想についてお聞きしていました。ただからだが疲れているから出る眠気は、2~3度冥想を続ければなくなるということでした。眠気には、もう一種類あるとおっしゃっていましたが、それはどういう眠気でしょうか。
A:
 2つ目の眠気は、からだが疲れて睡眠不足であるせいでなく生まれる眠気です。人には、行動したくない、励みたくない、という心の弱みがあります。いわゆる怠け現象です。これは修行によって直さなければならない煩悩の一種です。この眠気とは戦わなければなりません。この煩悩の眠気に負けて寝てしまうようになったら、ずっと性格が変わることはありません。眠気に負けずにヴイパッサナーを続けること、ヴィパッサナーの効果を理解することから、2番目の眠気は消えていきます。加えて言うと、からだが疲れて出てくる眠気は自然なもので、その場合は寝てもかまいません。
Q: では、次に妄想について聞かせてください。妄想というのは、いくら確認してもラベリングしても、次から次へと出てくるものだと、先月おっしゃっていました。
A:
 そうです。それは、心の問題で、心の中にどれくらい余計な概念、余計な考え方がたまっているかということが問題なのです。たとえば、大変よく勉強している、仏教のプロ中のプロが冥想を始めたら、みなさまより一億倍もきついんですよ。それくらい概念がつまっているのです。それを全部外へ出して、心が清らかになるまでは、全部妄想として出てくるのです。
また、冥想に入る前に、突然知らない人に 「あなたどこへ行くのですか」 と話しかけられたら、あるいは何かとんでもないことを言われたとしたら、それは頭に残ってしまうのです。残ったまま冥想を始めると、それが妄想となって出てくるのです。あとに残ったということは、やっぱりエネルギーとして、たまったということなのです。たまったエネルギーは、どんどん出て、出て、出て、確認するとそのエネルギーは消えてしまうのです。言葉できちんと確認すると、悪いエネルギーは良い方向へ変わっていくのです。ですから確認が上手になってくると、夢の中であってもだまされません。しっかりと生きていることができるのです。
Q: 妄想は、冥想を始めると出てきて、気がつきますが、今のお話ですと、エネルギーとしてからだにたまったものだということですので、冥想をしない場合はどこへ行くのでしょう。
A:
 仕事中や、いろいろなときに疲れが出てきますね。この疲れが出たということは、いろいろな妄想が働いていたということなのです。仕事をしていていろいろなことを考えたり、悩んだりすると、その時間には疲れがたまるのです。からだそのものが疲れるということはそれほどないのです。
からだが疲れたというのもまた、ひとつの誤解なのです。歩いて疲れた、がんばって疲れたというようなことはね。からだは疲れたら死んでしまいますからね。死ぬまでからだは活動しているのです。
「疲れた」 ということは、意外に思われるかもしれませんが、悩んでいらっしゃることなのです。自然の流れを、自我意識が、バラバラにしてしまっているということなんです。いろいろなことを考えて、自然の流れを何とかいじろう、いじろう、とした結果なのです。それで疲れてしまう。
 わかりやすく言えば、たとえば走る場合、走る前に、2キロ走る、3キロ走ると、決めてしまうでしょ。それは大変な妄想概念なのです。2キロというのは、自分のからだには関係のないことです。 「自分」 という存在にはまったく関係のない、「世の中のこと」 なのです。それは頭の中の妄想概念です。それを何とかして達成しようと努力する、それは不自然なことですから疲れてしまう。
ですから走る場合、たとえば健康のために走ろうと思うなら、まあ、走れる距離くらい走ろうと走ればいいのであって、たとえば筋肉がもうこれ以上ダメですよというところまで走ればいいし、そこで終わったら疲れていないのです。それから休めばいいのです。
休むと、疲れがどっと出るのではと思うと、そうでなく、とても元気になるのです。でも毎日3キロ走りましょうと決めたら、それは妄想概念で決めたことだから、からだに合わず、ものすごく疲れるのです。その場合、キロという目印が気になっているだけで、体のことが気になっているわけではありません。キロを気にしても、修行にもならなければ健康にもならない。気にしてほしいのは、からだの方です。走るときも、歩くときも、からだを見て進む。
距離ではなくてね。
 そういうことで、からだを基準にして行動していると、からだは疲れません。疲れるのは心の方なのです。
Q: 話は変わりますが、健康のために、たとえばいろいろと病気があるという人も、ヴィパッサナーに取り組めば治るでしょうか。
A:
 ヴィパッサナーには、変えていく力があるのですが、何かを目的にしてしまうと、逆にものすごく時間がかかります。
それは人間の自我のせいなのです。
何かこういうものを得たいと思ったら、それはものすごく遠い目的になってしまうのです。それは心の法則なのです。
今おっしゃったように、たとえばいろいろ健康にトラブルがあって、薬が効かないような病気を持っている人がいて、健康のためにヴィパッサナーでもやってみようかと思ったら、これはものすごく時間がかかるのです。なかなか治らないのです。治らない理由は、目的を作ったということです。
たとえば、私はこの境地に行きます、と思うとそれはその人の一生の仕事になるんですよ。心の悩みがあったとしても、ヴイパッサナーは瞬時に治すことができるのですが、それを目的にすると残念ながら、2年、3年、ときには5年も6年もかかってしまうのです。だから、私から見ると本当にもったいないことなのです。そんなこと置いておけば、たった一日でその段階に進んでしまうのです。ですからこの、「すべての放棄」 「責任の放棄」 ということは、とことん覚えておいてください。我々は何もする必要はないのだと。
 ですから、冥想は自由に気軽に、遊びにでもやってみてください。どんな結果があるのかなあ、とかね。
ゲーム感覚で遊んでみてください。遊んだら仏教に失礼じゃないかとか、そういうことはないのです。
自分の気持次第です。いい結果が出てくるとどんどんできるようになってくるのです。すると自分にすごくいいことだとわかるようになると思います。そうなれば、いつでも常に気づきながら仕事したり、生きていったりできるようになると思います。
(みなさんからのご質問等をスマナサーラ長老にお聞きし、PATIPADÂ 編集部でまとめました)
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【2】日常生活の中での冥想の仕方

 
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2日常生活の中での冥想の仕方2 
Q: 先月から冥想に関する質問をさせていただいていますが、基本的なことで、冥想のときというのは心はどのような状態でいればよいのでしょうか。
A:
 ヴィパッサナーでは、心はいつも活き活きとしていてほしいと思います。歩く冥想などでは特にそうですが、寝るときでも元気に寝る、起きるときでも元気に起きるということです。落ち込んだりすると心にはよくありません。ヴィパッサナー冥想自体も当然、とても明るく、活発にやらなければいけないのです。
Q: 冥想のときは、静かに落ち着いてゆっくりと、というふうに考えていましたが、じっくりゆっくりということだけでもないのでしょうか。
A:
 そうですね。元気にやることが大切ですから、歩く冥想なども、特にゆっくり歩く必要はありません。自分のペースで速く歩く場合でも、そのときは 「左足、右足、左足、右足」 と足の速さに合せて、動きに気づき言葉をかけるようにすればよいのです。いつものように、足を上げる、運ぶ、降ろす、と教科書通りやらなくてもー向に構いません。
先月お話しましたように、家の中でいろいろな雑事をするときも、言葉で確認しながらやってください。そうすると、様々な宗教でいう 「不思議な感覚を感じる体験」 などというものとは全く別世界のものになっていきます。
妙な不思議体験などを求めたり、陥ったりしないよう、日常生活の中でどんどん言葉をかけて、冥想を行う方がよいのです。
Q: 日常の様々な忙しい生活の中で、いちいち動作を確認したり言葉をかけることは、難しいことのように思います。
A:
 そうですね、大変ややこしいことです。やりにくいのです。そのやりにくいことを我々は大変大事にしているのです。それを続けると、心が生き返ってくるのです。すごく力がついてきます。大きな力がないと修行は進みません。大きな力がついてきて、心にエネルギーが出てくると、ものの感じ方がものすごく敏感になってきて、言葉ではもう追いかけられなくなります。感じるほうが言葉より早いのです。そうなったときには、心はすごく元気なはずです。
 だからといって、こんな面倒なことはやりたくない、楽にやりたいと、最初から言葉をかけずにやろうとするのは、怠けとしか言いようがありません。楽にものごとをすませようとすると、結局何も得られないということになります。掃除機をとるときでも 「掃除機をとります」 「コンセントを引きます」 「スイッチを入れます」 「掃除機をかけます」 「引きます」 「押します」…というように続けてください。
Q: 何も得られないとは厳しいお言葉ですが、確かに日常生活の中で言葉をかけてということは大変なことです。できるだけ、つまり短い時間だけ実行してもよいでしょうか。
A:
 掃除機をかけるときまで、言葉をかけているとくたびれてしまうのです。そうするとそこでやめてしまう人が多い。仕事も早く終わりたいのに、言葉をかけているとえらく時間がかかって遅くなってしまう。でも、くたびれてもやって欲しいのです。
それでもやる人は、どんどん元気になっていきます。心が妄想から離れて、無駄をなくし、効率よく行動するようにと、自然と変わっていくのです。その基本的なエネルギーを作りながら、ヴイパッサナーは進んでいきます。長い道のりです。毎日、1時間というのは最小限の時間でしょう。でも1時間づつ歩き冥想を続けることで変わっていくことができます。
Q: 冥想中、つらくなったときにはどうすれば良いでしょうか。
A:
 冥想中に、たとえば吐き気がしてトイレに行ったとします。そのときはああいやだとか、この状態は嫌いだとかなんとか、「いやだ」 というような言葉は頭の中から消すように努力すべきです。
それは冥想に限りませんよ。どこかからだに痛みがあっても、みんなに悪口を言われたとしても、どんなことがあってもそれを 「いやだ」 と考えるのではなく、その状態は自分がぶつかるべくしてぶつかったひとつの現象として、正面から堂々とそれに出会ってみてください。
病気のときもそうです。病気という状態、痛みの状態、不自由な状態、気持ち悪い状態、そんな状態をよく見て味わうのです。そうすると不思議に奇跡的に病気そのものを乗り越えてしまうことがあります。
Q: からだの痛みにせよ、人からいわれる悪口にせよ、自分のつらいこと、弱い面を、まっすぐに見るということでしょうか。
A:
 実は、冥想を始めると、我々の性格の中にある 「弱いところ」 がまず出てくるんです。冥想なんてとても単純な、言葉で確認するだけのことなんですけどね。足を上げます、運びますとか、ふくらみ、縮みとかね。不思議なことに、もし性格として直さなきゃいけないような、正さなければならないようなことがあるならば、すぐにそれが出てくるんです。いわゆる、人格の 「弱み」 が、先に表に出てくるんです。それでそこでめげてしまったら、進歩はありません。でもありがたいことに、一番先に出てくる自分の弱みは、すぐに直ります。直る順番に出てくるんです。それで直ったら次が出てきます。出るときは次から次へと出てきます。でも、気にしないことです。
Q: 自分の中の弱みが「出てくる」とは、どういうことでしょうか。具体的に言うと、どのようなことでしょうか。
A:
 たとえば、からだのどこか悪いとそこが出てくるんです。それでみんな怖がってしまうんです。こんなことをやっていたら、自分はもっと病気になるのではないかと。でもそうはならないのです。ものすごく食べものに執着のある人ならば、「もう時間になったのに、今日は食べられないかもしれない」 そういう心配が出てきたりする。そういう自分の弱みがあるとすると、心はその弱みを握って 「冥想実践をやめてください」 と言ってくるのです。
心は自分を変えたくない、直したくないのです。隠れて、隠れて逃げまわりたいのです。
弱みを握られたら言うこと聞いてしまいますからね。子供が誘拐されたら、どんなにけちな親でもお金出してしまうように。それと同じです。ですから皆さん、このように出てくるいやな現象には、ありがたいと思うべきですね。
それを確認していけば、すべて直っていくのですから。心の問題も、からだの問題も。
 眠気が出るのはごく普通のことで、そういう方にはまずそれが問題です。でも、眠気には2種類あって、ただ疲れて眠気が出る場合は、2回、3回と座り冥想を続ければなくなります。そういう場合は別に気にすることはない。それから妄想がどんどん出てきます。何回も冥想を続けると妄想に気づく回数も増えて来ます。妄想というのはいくら確認しても、ラベリングしても、次から次へと出てきます。それは別に悪い現象ではありません。この妄想ともう1種類の眠気については、来月、もう少し続けてお話したいと思います。
(みなさんからのご質問等をスマナサーラ長老にお聞きし、PATIPADÂ 編集部でまとめました)
 





【1】 日常生活の中での冥想の仕方

 
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1日常生活の中での冥想の仕方 
Q 今月からしばらく、ヴィパッサナー冥想に関する質問をさせていただきたいと思います。まず家にいるときや、普段の生活の中でする冥想について教えてください。
A:
 どんなことでもいいですから、自分でやっていることを確認してください。それがもう、ヴィパッサナー冥想なのです。皿を洗っているときも、料理を作っているときも、食べているときでもおフロに入っているときでも、いつでもできるのです。皿を洗うときに、冥想会でやるようなおなかの膨らみ縮みの確認をするのではなく、「皿を取ります、洗います、拭きます、置きます」といったように、その時自分がやっている行動を、心のなかで確認するのです。普段やっていることを2度確認することです。それをやって、いくらか慣れていかないと、そこから進むことは難しいのです。
Q 冥想会で座ったり歩いたりという冥想を実践することとは別に、そのような日常の「確認」を続けることには、どのような意味があるのでしょうか。
A:
 我々が生きている幻想的な世界を破って、真理の境地に至るために、その方法が必要です。日常の冥想というのは、自分がやっているもろもろのことを、本当にきちんとやっているのかという確認をすることがポイントです。ですから、それができるようになると、我々人間は実際のところ何をしているのかというところまで進めるようになりますが、最初はそこまで考えなくてもいいのです。
 皿を取って、洗って、置きます、というようにやってみればいいのです。それまでのように、普通に確認せずに仕事をしている途中で試しに確認してみる、普段のように仕事を進めながら、確認をしてみてください。そうすると、何か差がでてくるかどうか、自分でわかるはずです。
それが上手にできるかどうかということだけがポイントであって、その時点で、皆さんがどれほど悩んでいるかとか苦しんでいるかとか、性格がしっかりしていないかとか、そういうことは関係ありません。ただ、単純に見える確認作業でさえ、性格がしっかりしていなければできないのです。
Q 確認をしながら仕事をしようとしても、いろいろなことを考えてしまって、すぐに確認を忘れてしまいます。
A:
 そうなのです。ずいぶん偉いことを毎日やっているように思っていますが、水一杯飲むことがあなたにできますか、と聞きたいのです。大した仕事ではないのですから、水一杯飲むということを、きちんと言葉で確認しながらやってみてください。性格ができ上がっていない人にはできないのです。頭があっちへ行ったりこっちへ行ったり、早く飲んでしまったり必要以上ににゆっくり飲んでしまったり、うまくはできないのです。そういう簡単な、歩くこと、座ること、横になること、掃除や洗濯をすること、会社に行くこと、仕事をすること、そういう毎日やっている普通のことをきちんと確認できれば、注意して行うことができれば、もうそれだけで立派な人間になるのです。2-3週間くらいはかかりますが、試しにやってみてください。
 電車で立っているときなど、いろいろなくだらない雑念を全部心のなかから取り除いて、「立っています、立っています」「見てます、見てます」「聞こえています、聞こえています」というふうに現実にある事実だけを確認するのです。座席があれば座ってもいいし、座ったら目を閉じてもいいし、閉じなくてもいいのですが、体の揺れ、電車の音、あるいは呼吸でもいい、頭の中でつくりだす妄想ではなく、実際にある何かを確認していくのです。
Q たとえば「電車の音が聞こえる」というふうに確認すればいいのですか。
A:
 何かの音という風な確認ではなく、ただ、耳に触れるものとしてだけ「音」を確認するようにします。音というものは耳に触れるだけのものなのです。
それがカラスの声か、人間の声か、さらには騒々しいとか心地よい音だとか判断するのは、我々の脳細胞です。脳細胞には関係なく、「音です、音です」あるいは「聞いています、聞いています」とじーっとその音を観る、それが、ヴィパッサナー冥想なのです。
ヴィパッサナー冥想にならないのは、こういう理由でその音が鳴っているのだなどと考えるときなのです。
Q 脳細胞を働かせて、脳細胞に何かを考えさせてはいけないということでしょうか。
A:
 人間は大体、考えるのが好きですね。考えるのをやめてくださいというと怖がるのです。人間でなくなってしまうような気がして怖いのです。でも本当に「考えない」ことは危険なことでしょうか。考えないと本当に馬鹿になってしまうのでしょうか。試しに「考えない」ようにしてみてください。
発見できるはずです。何も考えないで、ただ行動しているだけの人は、ものすごく智慧があって、ものごとをわかっている、落ち着いた素晴らしい人間であることを。
 少しわかりやすい例でいいますと、仕事中、頭を痛め続けて考えても全く仕事がはかどらない、けれども頭をリラックスさせて、気持を楽にした瞬間に仕事がうまく進み出す、そんなことはまれなことではありません。つまり、人間の成長を大きく邪魔するのは「妄想」であると言えます。
我々の全ての悩み、苦しみは、「妄想」「価値判断」から生まれてくるのです。
Q しかし、何かを見たとき、聞いたとき、何かに出会ったとき、判断しないということはできないのではないでしょうか。
A:
 私がよく言うのは、人が私に「ばかやろう」と言った、それで私が怒った、それは当り前だと思ってしまいますが、当り前ではないのです。なぜなら、その人の言葉「ばかやろう」はただの音であるのに、「自分がけなされた失礼なやつだ言うべきではない」と私が解釈したから怒ったわけです。解釈をしなければ怒らないはずです。
「その人がしゃべっている」と、事実だけ確認すべきなのです。その人が私をけなしているかどうかは、私にはわかりません。
正しい人なら、怒る前に、「ちょっとごめんなさい、あなたはどういう気持でその言葉をしゃべっているのですか」と聞くのです。それでその人が、「わたしはあなたをとことんけなしたいのだ」と言ったら、じゃあ怒りましょう、ということではありません。ただ言いたいのは、自分の頭の中の勝手な解釈で、怒ることが当然だと思っている、それは違うということです。
(みなさんからのご質問等をスマナサーラ長老にお聞きし、PATIPADÂ 編集部でまとめました)
 




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